2月26日(金)に成田を発ち、3月1日(月)帰着するという週末を利用した2泊4日の強行軍でニューヨークに行ってきました。去年もこの時期に同じことをやりましたが、土曜日にマチネ公演があるメトロポリタンオペラならではのことで、2日間で3本のオペラを観ることができます。
今年の目玉は、リッカルド・ムーティがMETに初登場し、しかもMETにとっては初めての上演となるヴェルディ《アッティラ》を振る、というものです。今回はこの時期、妻が別に所用があったので諦めていたのですが、直前になってひとりでも行ってこようと決意しました。
ニューヨークに着くと、前日夜から降りはじめた大雪がかなり積もっています。慣れているのでワシントンのように都市機能がマヒということはなく、道も除雪されていますが、それらの雪が路肩に積まれているため、横断歩道のところは一部雪が残っています。気温は零下ですが融雪剤を撒いているせいかシャーベット状になったところを人が歩くので、ぐちゃぐちゃにぬかるんでいる箇所があちこちにあり、歩きにくくなっていました。それでも札幌のように歩道がカチンカチンに凍りつくよりはずっとマシかもしれません。
1.《セヴィリアの理髪師》
(2010年2月26日)
指揮:マウリツィオ・ベニーニ
演出:バートレット・シャー
装置:マイケル・イーガン
衣装:キャサリン・ズーバー
アルマヴィーヴァ伯爵:ローレンス・ブラウンリー
フィガロ:フランコ・ヴァッサッロ
ロジーナ:ディアナ・ダムラウ
バルトロ:マウリツィオ・ムラーロ
ドン・バジリオ:サミュエル・レイミー
ベルタ:ジェニファー・アイルマー
バッサッロは、昨年夏のヴェローナでも同じ役で聴いていますが、若い頃のヌッチかあるいはそれ以上にはまり役といえ、芸達者でしかも若さにもあふれた溌剌たるフィガロです。広いMETでも声がよく響き、しかもアジリタの切れは、ソプラノ、テノールと比べても遜色ないほど。冒頭の<俺は町の何でも屋>では普通のバリトンは1オクターブ下に逃げることも多い超高音ラ(A)も特に力むことなく柔らかく響かせるなど、高音に強いところも見せました。
今回興味深かったのは、ロジーナを歌ったディアナ・ダムラウです。YouTubeなどで夜の女王やツェルビネッタなどの超絶技巧では当代随一のドイツ系コロラトゥーラ・ソプラノだということは知っていましたが、ナマを聴くのは今回が初めて。アジリタ歌唱は期待通りの安定感ですが、夜の女王のイメージが強すぎたのか、最初は強すぎる「r」の子音の発音とあいまって、あまりにも気が強いロジーナだという印象がありました。
歌唱表現が強いだけでなく、演技の面でも時おりスパニッシュダンスのような振りを折り混ぜる激しさがあります。しかし、単なるコケットではなく、自分の運命は自分で切り開くという強い意志を持った女というロジーナの側面を強調するこのような描き方も、ボーマルシェの原作が本来持っているリベラルな性格にはふさわしいのかも知れない、と思い直してみると、彼女の達者な演技と歌唱に次第に惹き込まれていきました。彼女の歌唱の後には爆発的な大喝采が起きましたが、一部にしつこくBooをかけ続ける声もありました。アメリカの聴衆にしては珍しいな、と思いましたが、イタリア系の様式感からすると、ちょっと過激な挑戦と感じる人がいても不思議ではありません。
伯爵を歌ったアフリカ系アメリカ人のブラウンリーは、経歴をみるとロッシーニのスペシャリストであるようです。最近になってよく演奏されるようになってきた幕切れの大アリアも技巧的には難なくこなしました。音の粒をひとつひとつ際立たせながら滑らかなスラーをかけて速いパッセージを駆け抜ける技術は、フローレスと比べても遜色ないかもしれません。しかし残念ながら、容姿ということだけでなく声においてもフローレスがもつ華やかさ、明るい直進性というものが足りないため、超絶技巧を味わったときの深い感動に欠けるような気がします。そうはいっても立派な演奏であり、惜しみない拍手をもらっていました。
バルトロ役のムラーロも喜劇的なバス・バリトンの専門家。早口言葉の口跡もよく、声量があるのでMETで重宝される歌手だと思います。
ドン・バジリオはシリアスな役をやるバッソ・カンタンテが歌うことも多い役柄で、ベテランのレイミーもその伝統にのっとり楽しんで歌っているという雰囲気がよく伝わってきました。
全盛期に彼がフィリッポや青ひげを歌うのを聴いてきた私としては、この役はともかく、翌日の《アッティラ》のレオーネにまで登場するのは、少し寂しいような気もするのですが、METの重鎮として後輩を盛り立てようとする姿勢は、自己顕示欲が強い歌手の世界では立派なものともいえます。もちろん彼のことをよく知っている聴衆からは盛大な拍手がおくられていました。
ベニーニの指揮は職人的な手堅さで不足感はありませんが、ヴィルトゥオジティに欠けるMETのオケからはロッシーニの華やかな明るさというものが十分に引き出せてはいないような気がしました。