指揮:マルコ・アルミリアート
演出・装置:フランコ・ゼッフィレッリ
衣装:ピーター・J・ホール
ミミ:アンナ・ネトレプコ
ロドルフォ:ピョートル・ベチャワ
マルチェッロ:ジェラルド・フィンリー
ムゼッタ:ニコール・キャベル
コッリーネ:オーレン・グラドゥス
ショナール:マッシモ・カヴァレッティ
ブノア/アルチンドロ:ポール・プリシュカ
なんと言ってもゼッフィレッリの美しい舞台は何度みても感動させられます。オットー・シェンクの《こうもり》の演出と並んで、なかなか変えられそうもない「定番」といえるでしょう。そして今回はヴィジュアル面だけでなく歌の実力もともなったキャストが揃ったので、「甘く切ない」プッチーニの世界をたっぷり堪能できる充実した公演となりました。
もともと人気のある演目であるうえネトレプコが出るせいでしょうか、この公演だけはインターネットでは満席なので、Y・I女史のつてでチケットを手配してもらいました。行ってみると、天井中央の大シャンデリアが落ちたら確実に当たりそうな平土間真ん中の最高の席でした。
人気絶頂のネトレプコをナマで聴くのは実は今回が初めて。DVDなどでお馴染みの美しい容姿は、出産を経てそろそろ危険水域に近づいているもののなんとか踏みとどまっているという感じですが、思った以上にすばらしいと感じたのはその声です。平土間のど真ん中で聴いたということもあるかも知れませんが、とにかく広い劇場を満たすだけのたっぷりとしたリンギングがある声です。響きの豊麗さという点ではフレーニと似ているともいえますが、音色は別で、フレーニの声がぽっちゃりとした肉感的な響きであるのに対し、ネトレプコの声はもう少しスリムだが華やかさがある響きであるような気がします。
第1幕の有名なアリアの歌いだし<私はミミと呼ばれているの。でも本当の名前はルチア>の「ルチーア」という言葉、あるいは2回目に同じ音型で「なぜなのか私は知らない」の「知らない(non lo so)」というフレーズは、軽く速めに歌いきってほしいところなのですが、彼女はたっぷり伸ばしてしまいます。そうした細かいフレージングの様式感については、多少気になる点はありましたが、とにかくそんなことはどうでもよくなってしまうくらいの魅力的な声だと感じました。
ポーランド出身のテノール、ベチャワ(ベツァーラ?)も響きがよく艶もある美声で、おまけに高音の安定感が抜群。《冷たい手を》のハイCも余裕をもって難なく引っ張っているようにみえました。顔もまずはハンサムといってよいレベルで体型もすらりとしています。まさにヴィジュアル的にも音楽的にも申し分のない強力なカップルでした。
ムゼッタのキャベル(ケイベル?)は色浅黒く、美人というわけではありませんが、すらりとした体型で演技力もあるので、男好きのするわがまま娘という役にはこれもはまっています。フィンリー、グラドゥス、カヴァレッティの男性低音陣も若々しい容姿と立派な声を持っており、アンサンブルのバランスがよく、若き芸術家たちの群像がよく描けていました。
舞台を2重につかったにぎやかな第2幕カフェ・モミュスの場面が特に有名なプロダクションですが、今回改めて感銘を受けたのは第3幕、雪のアンフェール門の場面です。紗幕を上手に使った美しいモノトーンの雪景色だけでなく、特段必要でない通行人を多数さりげなく登場させるゼッフィレッリ一流の雰囲気作りのうまさはやはり別格だと思います。
そして、今回あらためて気づいたのは、この場面の冒頭で居酒屋の奥から聞こえてくるムゼッタの歌声。前幕で歌われたいわゆる<ムゼッタのワルツ>の冒頭のフレーズだけが聞こえるのですが、ここでは前幕では伴奏にあって主旋律にはなかった音型が混ぜて歌われます。
つまり、前幕では「ド~ドシ~シラ~」と歌われた旋律に「ド~ドミソドシ~シレファシラ~」(2番目のド、シは1オクターブ下)という具合に下線部の3連符が装飾的に加わっているのです。伴奏部にあった3連符が加わることにより明るいムゼッタのアリアが突然哀愁を帯びる、そうした効果が計算しつくされているのでしょう。そして、このメロディーはミユージカル「RENT」のテーマとして使われたため、ニューヨークでは特にエモーショナルな効果をもつ旋律なのです。
アルミリアートは、イタリアの若手指揮者の中でも実力派の逸材だと思います。この公演でも様式感のたしかな指揮で、劇場効果満点で色彩豊かなプッチーニの音楽を実に美しく再現してくれました。
ヴェルディのぎらぎらとした力強い劇的な音楽が好む私は、普段このドラマ性が希薄で情緒纏綿たる風物詩のようなこの作品はあまり好んで聴くほうではありません。しかしながら、前日から雪化粧したニューヨークの街で、このゼッフィレッリ最高傑作の舞台によるボエームをこうしたキャストで聴くと、不覚にも涙が出てしまうくらいに感動したのでありました。