指揮:リッカルド・ムーティ
演出:ピエール・アウディ
装置・衣装:ミウッチャ・プラダとヘルツォーグ&ド・ムーロン
衣装アソシエイト:ジャン・カルマン
アッティラ:イルダル・アブドラザーコフ
オダベッラ:ヴィオレッタ・ウルマーナ
エツィオ:ジョヴァンニ・メオーニ
フォレスト:ラモン・ヴァルガス
レオーネ:サミュエル・レイミー
ウルディーノ:ラッセル・トーマス
まず最初にお断りしておかなければならないのは、このヴェルディ32歳の時の作品は、売れっ子作曲家になりたての量産時代のもので、かつ、当時のイタリア独立運動を背景としたいわゆる「愛国的」作品から人物の感情を描くメロドランマ的作品への過渡期にあたるものですので、弱点もかなりあり、作品の完成度という点では同日昼に聴いた《ボエーム》と同じ高みにあるとは(いくらヴェルディ贔屓の私でも)言えない、ということです。
しかしながら、個々の楽曲には弱点を補ってあまりある霊感に満ちたすばらしいメロディーや、血沸き肉踊るリズムが満ち満ちており、ヴェルディ・ファンにとってはこたえられない魅力のある作品なのです。その意味では、万人向きというよりは少しマニアックな作品といえます。それゆえにこそ、後述するように、演出をどうみせるのか、がこの作品の魅力をより多くの人にわかってもらうためには、重要である、と思うのです。
当夜の公演は、演奏面では、やはり期待どおりでした。ソリスト達の歌唱は十分に満足できるものでしたし、それを統率するムーティのヴェルディはやはり凄い。初期ヴェルディのほとばしる熱気が十分に感じられるすばらしいものでした。
ただ、その美しいがシンプルで荒々しさの残る曲の面白さを十分に堪能するには、視覚面で少しだけ影を落としてしまったのが、凝りに凝った今回のMET初演プロダクションです。そこで、まずはその舞台の話からはじめましょう。
プロダクションチームは、レバノン出身ピエール・アウディの演出に、装置・衣装があのイタリアの有名ブランド「プラダ」のオーナー兼デザイナー、ミウッチャ・プラダ女史とスイスの建築家ジャック・ヘルツォーグとピエール・ド・ムーロンそしてフランス人のアソシエイト衣装デザイナー、ジャン・カルマンという国際的な組み合わせ。ヘルツォーグ&ド・ムーロンは2006年から舞台美術を手がけているそうですが、プラダとともに舞台人とはいえない人々を率いるネーデルランド・オペラ芸術監督アウディの「斬新な」アイデアが、保守的なMETの聴衆を納得させることができるのか、というのは注目されていたはずです。
プロローグの幕があがるといきなりコンクリートの瓦礫の山が、METの巨大なプロセニアムの四分の三くらいの高さにまで積み上げられています。ところどころから曲がった鉄筋も飛び出している白っぽいスラブ状の破片の上を歌手たちは登り降りします。瓦礫の山の中腹にアッティラが仁王立ちしており、彼が行った凄まじい破壊の跡を睥睨しているのです。
最初の合唱は王を讃えるフン族の戦士たちによるものですが、合唱団はTシャツのようなボロをまとって舞台手前下部に這いつくばっていて、破壊されつくした国の民のようにも見えます。この演出では、合唱は常に舞台下部にいて、主として舞台上部にいるソリストたちの芝居に積極的に参加することなくコロスのような役割を担っています。
ただし例外的なのは、フォレストが民衆に決起を促すプロローグ第2場です。第1場の巨大な瓦礫の山が上に移動し、下四分の一くらいの空間に十字架が立ち、人々が周囲に立っています。そこにフォレストがあらわれ、人々に怪物のような侵略者から祖国を守るために立ち上がろう、と勇ましい歌で呼びかけます。
この時の「祖国(Patria)」という言葉を英語字幕では「homeland」と表記しているのを観て、私は急にあたりがキナ臭くなったような思いに駆られました。いわずもがなですが、homelandという言葉からは、911の後に設立されたDepartment of Homeland Securityが連想され、眼の前にある瓦礫の山が例の「グラウンド・ゼロ」を思い起こさせたからです。あの2001年の暮れにもMETを訪れた私は、ツイン・タワーの跡地周辺にも行ってみました。その時にまだあたりには焦げ臭いにおいがたちこめていました。そのにおいを思い出したのです。ご当地METの観客の大部分があれを思い起こすに違いありません。
瓦礫の山ですぐに思い出したわけではありません。むしろ、当日の朝に起こったチリ大地震のニュースの映像などを連想していました。しかし、フォレストが十字架を掲げ、Homelandのために戦おうと叫び、民衆がそれに呼応して勇ましい合唱を始めるシーンを観て、思い出したのです。あの当時のアメリカは、いたる所に星条旗が掲げられ、異様な熱気に包まれていました。当時ブッシュ大統領は「十字軍」という言葉を口走って顰蹙をかいました。オペラハウスに来ているアメリカ人たちの中には、あの当時の記憶を気恥ずかしく感じている人も少なくないと思います。これはずいぶん際どい演出だな、と思ったわけです。
ヨーロッパ人のチームは、おそらくそこまでは考えておらす、プログラムの解説を読むと、森林破壊の問題などを重層的に織り込む意図であったようです。第1幕に入ってからは、コンクリートの瓦礫は消え、一転して熱帯雨林を思わせる鬱蒼たる森の緑の下草が壁のようにプロセニアムを埋めつくし、その下部に空間があらわれたり、中腹に丸い穴が開いて、その中でアッティラやエツィオが歌うというシーンが展開されます。
結局、アッティラは最終の殺される場面までは舞台面には降りず、常に中空で歌う形になりました。METの舞台で音響的にどれだけ不利になるのかはよくわかりませんが、舞台最前列よりは声が響かないといっていいでしょう。
そうした条件の中でアブドラザーコフは健闘していましたが、持ち前のしなやかで柔らかい発声は、蛮族の王の荒々しい力強さを十分表現しきれない感じもありました。むしろレオーネというちょい役で出てきた往年の主役バス、サミュエル・レイミーに声の迫力では圧倒され気味でした。
もっとも、このふたりの対決の場面は、本来レオーネが優位でなければならないところでありながら通常の脇役バスでは力不足になってしまうことも多いので、ドラマ的には本公演の方が適切であり、アブドラザーコフも無理に張り合おうとしなかった、あるいはムーティがそうさせなかったのかもしれません。それにしても、舞台最前列という有利な位置とはいえ、前日の《セヴィリア》のドン・バジリオに続く連投ですから、レイミーもなかなか元気なものです。
男声陣の中では、バリトンのカルロス・アルヴァレスの代役のジョヴァンニ・メオーニが好調で、直進性のある声がよく響いていました。ジョヴァンニ・メオーニという人は、07年にVeronaでナブッコを聴いたときにも、誰だったか主役バリトンが不調で急遽代わりに出てきてまずまずの好演をしました。 今回も当日のプログラムにも載っていないくらいの急な登板だったわけで、なんか、縁の下の力持ち的な役ばかりやっているようです。
キーロールのオダベッラを歌うウルマーナは、昨年9月のスカラ日本公演でアイーダを好演したことでもわかるとおり、ヴェルディ後期を歌う力強い声をもっていることはわかっていましたが、アジリタができるのかが心配でした。しかしながら、それはまったくの杞憂で、同じタイプのグレギーナやテオドッシュウよりも、声の敏捷性はあり、うまいアジリタを聞かせまました。声量の点ではグレギーナ、鋭い表現力という点ではテオドッシュウに一歩譲りますが、クリアな直進性のある声は十分にオーケストラや合唱、男性陣の声を突き抜けて響いていました。メッゾ出身のわりには高音にも安定性があります。それとは裏腹に中低音の響きはそれほどでもないのは、声域そのものが変化したのか、もともとそういうメッゾだったのか。
フォレストの役は本来もっとスピント系のテノールに歌ってほしいところです。ヴァルガスはリリコとしては精一杯共鳴を使って広い劇場によく声を響かせていましたが、先ほど演出の説明で述べた第一幕第2場で民衆に決起を促す場面、特に後半のカバレッタになってからの力強さには限界がありました。ただし、前半のカヴァティーナの締めくくりの高音をきれいに弱声で決めるなど、歌いまわしのうまさは光っており、大きな拍手をもらっていました。
さて、指揮のムーティです。開演時に指揮者がオーケストラピットに登場すると拍手が起こるのは当然ですが、それだけでなく、まだ演奏前なのにBravoなどの声がさかんに飛びました。METの聴衆がいかに彼の出演を待ち望んでいたか、ということなのでしょう(23日が初日でこの日は2回目の公演です)。
そして、その演奏ははたして期待にたがわぬものでした。この曲が持つカンタービレを歌わせる美しさもさることながら、並の指揮者と違うのは、やはり、ヴェルディの音楽が持つ熱さ、力強さの表現です。スカラやウィーンに比べると力量が劣るMETはぐいぐいと煽りたてるとやや粗いザラついた音色が出てしまうのですが、そんなことにはお構いなく、綺麗に弾くよりも大事なものがあるという姿勢で容赦せずに小気味よく突っ走ります。
合唱シーンは特にすばらしく、特に人数が多いというわけではないのに、劇場全体が鳴り響くようなぶ厚い響きを作りだしていました。また、このオペラでは、殆どのアリアがカヴァティーナ・カバレッタ形式で書かれており、後半の勇壮なカバレッタは、ブンッチャカチャッチャッという感じの類型的な伴奏形式でかかれています。これを凡庸な演奏で聴かされると現代の聴衆には滑稽で耐えられません。しかし、確かな様式感と熱気を持って演奏されるカバレッタを聴くときの血沸き肉踊るような快感はなんともいえません。当夜の演奏にはまさにそれがありました。美しく印象的なメロディラインを持ったカヴァティーナと勇壮なカバレッタ、そしてエネルギーに満ちた合唱とコンチェルタート。初期ヴェルディを聴く楽しみを満喫させてくれるのがこの《アッティラ》という作品なのです。
しかし、なんといっても台本が弱いのは事実です。台本作者のテミストークレ・ソレーラは、愛国的テーマが得意な台本作者ですが、原稿執筆着手が遅かったうえ、第2幕が終わったところで投げ出してしまい、第3幕はメロドランマが得意なピアーヴェが書き継ぐ形になってしまいました。結局、その最終幕が特にこのオペラの弱点になってしまっています。昔、私が受講したジュリアードの夜間講座でヴィンセンソ・ラ・セルヴァ先生が「このオペラの最終幕に得意のコンチェルタートを持って来なかったのは画竜点睛を欠く痛恨事だ」ということを言っていましたが、まさに同感です。あるいはオダベッラの苦悩を吐露するアリア・フィナーレでも、中途半端な4重唱よりはずっとよかったでしょう。
もともと原作のヴェルナーの戯曲が複雑で荒唐無稽なものである(らしい)うえに、人物の造型が浅く、オダベッラやエツィオの性格がつかみづらい弱い台本にもかかわらず、演出家のチームはテキストから「複雑で重層的な」意味を無理に汲み取ろうとしているような気がします。プログラムに掲載されているノートの中でアウディが「5人の人物の関係を視覚化するにあたって、私はワーグナーのドラマが要求するようまじめ(sober)で集中した(intense)やり方を心がけた。まさにその結果、私も予期しなかったのだが、この作品もつワーグナーのオペラのいくつかとの関係が見えてきたのである」と述べています。
確かにテキストには北方神話に関係する言葉がいくつも出てきますし、ヴェルナーの戯曲が「ニーベルンゲンの歌」の一挿話を下敷きにしていること、そもそもアッティラがゲルマンのある部族の王を滅亡させた史実が《神々の黄昏》につながっていることなど、この物語からワーグナーを連想するのはたやすいことではあるのです。しかし、一方で、ローマ教皇レオ1世がローマを包囲したアッティラと会見して説得したという史実や侵略者オーストリアに対するイタリア独立運動というテーマの方は、北方神話とは無関係であり、ここでワーグナーを取り出すのはどうも違和感があります。ヴェルディの音楽が持つ抗しがたい魅力を説明するときにワーグナーの痕跡を探そうとするのは知識人の悪い癖であるような気がするのです。
というわけで、せっかくムーティが全開で表現してくれたシンプルで力強いヴェルディの世界に、ゲルプ支配人自慢の豪華演出チームが、やたらに複雑な意味をつけくわえて水を差す結果になってしまった、というのが、今回のMETプレミエ公演であった、と私は思うのです。
なお、合唱団の姿はさておき、衣装については、さすがプラダと思わせる点がいくつかありました。なかでも決して容姿・体型に恵まれているとはいえないヴィオレッタ・ウルマーナがそれなりに颯爽としてみえる皮の衣装とメイクはなかなかのものだったと思います。エツィオの鎧や、アッティラの兜がLEDで光るのも奇抜なアイデアでした。
プロローグと第1幕および第2幕と第3幕を続けて上演し、幕間休憩は1回だけだったので、10時半という比較的早い時間にオペラがはねました。そこで、コロンバス・サークルまで歩き、ワシントン在住のジャーナリストM・I女史に教えてもらったレストラン「Landmarc」に行ってみることにしました。
私が西60丁目に住んでいた10年前にはなかったワーナーセンターというビルの3階にあり、目の前のコロンバス・サークルからセントラルパークをガラス越しに見渡すことができるところです。大きいので予約なしでも大丈夫という話のとおりで、すぐに席がとれました。カフェ形式の店かと思いきや、白いテーブルクロスの本格的なレストラン。ひとり旅にはうれしいハーフボトルのワインの種類も豊富。《アッティラ》の余韻を楽しむには最適の「トリッパ・ローマ風」にヴェネトのワイン「アマローネ」という組み合わせを注文することができました(アッティラの舞台はヴェネトとローマ周辺なのです)。味も悪くありません。各メニューにはSとLの2サイズが用意されているのも、日本人の女性や中高年にはうれしい配慮です。
遅くまでやっていてキャパも大きいこの店は、リンカーンセンターに行く人にとっては覚えておく価値がある場所だと思いました。