ボローニャ
前回は、8月9日(月)にウルビーノを出発、途中フランチェスカ・ダ・リミニとルクレチア・ボルジアゆかりの古城の街グラダーラに寄ったところまで話しました。
ところで、前夜、ウルビーノのホテル・マミアーニ併設のレストランでは、マルケの赤ワイン、ロッソ・ディ・ピチェーノを飲みました。よく覚えていないのですが、たぶん、Velenosiというメーカーのスペリオーレで、シンプルな仔羊のステーキによく合う濃い味でした。
グラダーラを出ると、リミニの近くでアウトストラーダ(高速道路)14号に入って、ボローニャを目指します。このA14はボローニャからはA1となってミラノまで、ロンバルディア平原の南端をほぼ直線で突っ切っています。これは、古代ローマのエミリア街道とほぼ同じルートです。下図のように、エミリア街道(青色)は、Ariminum(現代のリミニ)からPlacentia(現代のピアチェンツァ、ミラノの南東50km)まで、まさに直線でロンバルディア平原を北西に突っ切っているのです。穀倉地帯ロンバルディアで収穫された食料をリミニに集積しフラミニア街道を通ってアペニン山脈を横断し、ローマへ送っていたのでした。ガリアから帰還したカエサルもこの道をとり、リミニの手前を流れるルビコン川を渡ったわけです。
因みに、A1、A14と並行して走る国道9号線は今でも「Via Emilia(エミリア街道)」と呼ばれています。
このリミニとミラノを結ぶ道は本当にいやになるほど真っ直ぐかつ平坦で、高速道路は快適といえば快適ではあるのですが、途中サービスエリアで飲む濃いエスプレッソが非常にありがたいことも事実です。
高速道路の法定最高速度は一応130kmですが、今回乗ったレンタカーのアウディは140kmを超えると警告音が出るしくみになっています。片側3車線の一番内側の追い越し車線は、130km〜140kmで走っていることが多く、真ん中は120km〜130kmで巡航、一番外側はトラックなどが100〜110kmくらいで走行しているという感じです。最近は取り締まりが厳しくなっているのでしょうか。イタリアのドライバーも以前に比べて大人しくなっているような気がします。
私がイタリアをレンタカーで走り始めた1990年代の後半の頃は、追い越し車線の巡航速度は140km〜150kmが普通で、しかも時々、後ろからフェラーリやポルシェのような車がそれらの車をパッシングで蹴散らしながら猛然と追い抜いていく、という光景がよく見られました。その辺の暗黙のマナーは今でも同じで、速い車が後ろから迫ってくると黙って道を譲ります。しかし、そうやってしゃにむに速く走ろうとする車が減ってきているような気がします。そうはいっても、日本やアメリカに比べると、小型車の比率が高いのに、高速道路の全体的な巡航速度は、相対的にはかなり速いということがいえましょう。
ボローニャというのは、世界最古の大学があることで知られる街ですが、今回は、最近亡くなった井上ひさしさんの「ボローニャ紀行」を読んでみて、再度訪れたくなった次第です。
この著作に関しては、ネットの上でも様々な書評がなされていますが、その殆どがイタリア政治史で特異な位置を占めるボローャという都市の歴史とその「ボローニャ方式」ともいわれるユニークな自治体としての政策や都市再生プログラムに関する記述についての感想です。
しかし、私がこのエッセイ集で特に印象に残ったのは、井上ひさしの恩師にあたる神父さんがドミニコ会の会員で、聖地ボローニャに行くことにあこがれていながらついに果たせず日本で亡くなった、そのため、井上さんにとってもここが特別の土地であったということです。ボローニャには、聖ドミニコ(イタリア語ではサン・ドメニコ)(1170〜1221)のお墓があるのです。このお墓を見ることが、今回のボローニャ行きの大きな目的でした。
ボローニャの中心地、聖ペトロニオ大聖堂や市庁舎があるマジョーレ広場から南へ5分ほど歩いたところに聖ドメニコ教会はあります。
外観は托鉢修道会の教会らしく質素に見えるのですが、中に入ると、多くのイタリアの大聖堂と同じように、堂々たる大理石作りの豪華なものです。
教会の入り口から入ると正面奥の祭壇に向かって身廊(英nave、伊navata)が伸びており、その中ほどに、建物を真上からみると十字架型になるように両側に張り出した翼廊(英transept、伊transetto)があります。聖ドミニコの墓は右手の翼廊にあります。
聖ドミニコの墓がある翼廊聖ドミニコの墓手前翼廊礼拝席天井
それは、イタリアで最も壮麗な墓とも言われており、ニコラ・ピサーノ(1220頃-78頃)が率いる彫刻家たちによって彫られた大理石の彫刻で埋め尽くされています。
息子のジョヴァンニ・ピサーノや、アルノルフォ・ディ・カンビオなど、初期ルネサンスの巨匠たちの手によるものですが、後に若い頃のミケランジェロ(1475-1564)も手を加えており、下段の天使像の一体と上段の聖人たちのうちの2体は彼の作品といわれています。見たところ、統一感がとれていて、200年以上の時を超えて付け加えられた作品がどれかは見分けがつきません。
いずれにせよ、大理石の肌はみずみずしく、まるで柔らかい蝋でできているかのような質感で、厳粛な中に清らかで静謐な感情を呼び起こすもので、墓石の大傑作であることは確かです。
井上さんは、ミケランジェロの作品をいつもまでも手で撫でさすっていて、案内の神父にたしなめられたそうですが、周囲に柵のようなものを無いので、実際に触ろうと思えば触れる状態です。もうひとつ、井上さんが撫でさすって睨まれたのが、主祭壇奥(後陣)の聖歌隊席にあるオルガンだそうです。14歳のモーツァルトが自作のミゼレレを演奏した楽器であるとか。
主祭壇、奥が聖歌隊席
この聖歌隊席は、半円形の後陣全体を取り囲むかなり大がかりなもので、床や壁をふくめて精巧な寄木細工でできている見事なものです。
堂内には、そのほかに、ドミニコ会出身の大神学者、トマス・アクィナス(イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ)(1225-1274)の墓(記念祭壇?)もあります。
堂内で、ドミニコ会の修道士が祈りを捧げているのを見かけました。全世界のドミニコ会士は、一生に一度はボローニャを訪れ、ここで一年の修練をおさめたあと、一年の休暇をもらえることになっているとか。井上さんの洗礼名の名づけ親であったカナダ人の神父は、戦争などもあってその特典を行使する機会がないまま、福島県の教会で帰天されたのだとか。
修道士が着ている白い(夏用?)カソックのデザインは、映画《スターウォーズ》のジェダイの騎士の衣裳を想起させます。もちろん、こちらが本家で、映画の衣裳の方がこれをモデルにしたということでしょうが。映画の中では、同じく「托鉢修道会」として並び称されるフランシスコ会の暗色のカソックに似た衣裳はワルモンが着ていて、イイモンの衣裳がこの白いカソックに似たものになっています。
しかしながら、実はドミニコ会は、トマス・アクィナスを始めとするカトリックの教義を理論的に補強する学僧を多く輩出し、異端審問官の養成機関であったことでも知られています。そもそも聖ドメニコ(ドミニク)は、フランスで、カトリックからみれば「異端」であるカタリ派と戦うことで名をあげた人物です。聖ドメニコがボローニャにやって来たのも、法学の大学があったからだといわれています。学問的、理論的に異端と戦うことを使命と感じていた人だったのでしょう。ローマ法に淵源を持つ世俗の法学理論と弁論の技術を宗教裁判において活用しようと考えたのかもしれません。
異端審問官がダース・ベーダーのようなワルモンとは言い切れませんが、自分の教義と違う思想を持つ者を火あぶりにして抹殺することが正義だと信じている人たち、というのは、やはり恐ろしい人々であるとしか思えません。 前回ご紹介したウルビーノでウッチェッロ作の「聖体の冒涜」を見た時の一神教の非寛容さに対する恐ろしさ、という気分を、この異端審問官を考えるときにも感じざるを得ないのです。
ただし、ドミニコ会の修道士の中には、ジョルダーノ・ブルーノや、ジロラモ・サヴォナローラのような既存教会批判派の著名人もいた、ということも述べておかないと、片手落ちになるかもしれません。体制擁護派だけではなかった、ということです。チャールズ・サイフェの「異端のゼロ」という本では、ガリレオ・ガリレイもドミニコ会士だったと書いてあります。ガリレオには妻や娘がいたという話ですが、事実上の妻がいた聖職者というのは当時珍しくもなんともないので、彼が修道士でなかったということにはなりませんね。
日本のドミニコ会をネットで検索すると、興味深いことに気がつきます。日本では同じドミニコ会の教会・修道院が、東日本は「カナダ管区」に属し、西日本は「ロザリオ管区」というようにふたつの管区にわかれているようなのです。
ロザリオ管区というのは、16世紀に中国とその周辺の国々に宣教するためにできたとのこと。東進したミッショナリ(ロザリオ管区)と西進したミッショナリ(カナダ管区)がちょうど極東日本で出会った形になっているわけですね。最初に日本に来たのはもちろん東回りの人たちでしたが、徳川時代の鎖国・禁教でいったん中断してしまったために、後発の西回りが追いついてしまったということなのでしょう。聖公会(アングリカン)などでも、アメリカからのミッションの方が本家イギリスからのミッションより先に来日しているというようなことがあるようです。
それはともかくとして、井上ひさしの「ボローニャ紀行」を読んで、もうひとつ、ぜひ行ってみたいところがありました。「産業遺産博物館」です。昔のレンガ工場を博物館にしたそうで、織物産地とした名をはせたボローニャ式の水車のモデルや、オートバイ産業の歴史に関する展示があるとか。井上ひさしによると一見の価値がある博物館だそうです。
ところが、その博物館に行ってみると、8月7日から夏休みで閉館中とのこと。子供たちが夏休みの期間こそ、営業すべき博物館ではないか、と思われるのですが、子供たちへの啓蒙活動よりも博物館職員が夏休みを取る権利を優先したものでしょう。
もっとも、イタリアの子供たちには「夏休みの自由研究」といった宿題はおそらく課されることがないと思われます。新学期は9月からで、夏休みは学年の変わり目にあたるからです。夏休みの宿題というのは、新学期が4月からの日本の子供たちに特有の「不幸」であるといえるかもしれません。