ヴェローナ
8月10日にヴェローナに到着。ホテル・アッカデミアは、アレーナのあるブラ広場とローマ時代にフォロがあったエルベ広場という二大観光スポットを結ぶ街一番の目抜き通りマッツィーニ通りのちょうど中ごろの角をちょっと曲がった所にあります。
地の利が抜群なわりには静かで、マネージメントも行き届いているので、ここ4回連続で使っている定宿です。ものの本によるとマリア・カラスがイタリア・デビューした時に投宿したホテルなのだそうですが、ホテルの中には特にそれを売り物にするような展示物はありません。1階の奥にあるバーには、カルーソーなどオペラ歌手の写真が何枚か飾ってあるのですが、カラスのものは見当たりません。この街の人々には、地元の実業家メネギーニと結婚していながらオナシスのもとに走った20世紀最大のディーヴァに対する複雑な感情が残っているのでしょうか。
アレーナでのオペラの話は既にしましたので、この街にあるお城の話をしたいと思います。
ヴェローナは、ミラノとヴェネチアを結ぶ東西の街道(現在のA-4)と、オーストリアのインスブルックからブレンナー峠を越えてイタリアにはいる南北の街道(現在のA-22)が交差する交通の要衝にあり、ローマ時代から、アディジェ川の蛇行をうまく生かして、北と東は川に守られ、西と南に城壁を築いて堅固な城郭都市を形づくってきました。
その北側の川を背にした場所に、カステッロ・ヴェッキオ(古い城)と呼ばれる城塞があります。14世紀、当時のヴェローナの領主カングランデ・デッラ・スカラが建てたものです。シェークスピアの《ロミオとジュリエット》でヴェローナの領主として登場するエスカラス公爵(Prince Escalus)というのは、このスカラ(Scala)の名前をとってものでしょう。
この城の正面(市内側)には濠をめぐらし、ハネ橋で入る形式や、煉瓦作りの城壁、壁や塔の上にあるギベリン型のバトルメントなどが、グラダーラ城とよく似ています。
バトルメントというのは、ヨーロッパのお城によくある鋸形のギザギザのついた胸壁のことで、上にV字型の切れ込みがあるのをギベリン型というそうです。ということは、スカラ家(スカリジェリ)はギベリン(皇帝派)だったということでしょうか。
ジュリエットのキャピュレット家とロミオのモンタギュー家について、シェークスピアはあい争う一門としか書いていませんが、通常ゲルフ(教皇派)とギベリンに分かれて争っていた、というように言われます。ヴェローナ市内にはあちこちに城壁が残っていますが、それらのバトルメントはたいていこのギベリン型です。単なる建築様式の名前なので、これをもってギベリンが支配的だったとは言えないのかもしれませんが、ゲルフとギベリンが街を2分して争ったという史実があったのかどうか、少し疑問に思えてきます。
左は、ブラ広場の入り口(広場側から)
それはさておき、このカステル・ヴェッキオ、現在建物の中は美術館になっています。超有名な作品があるわけではありませんが、地元の教会に残されていた祭壇画や彫刻、リベラーレ・ダ・ヴェローナ(1441~1526)、フランチェスコ・ボンシニョーリ(1455~1519)、ジョヴァンニ・フランチェスコ・カロート(1480〜1555頃)、アントニオ・バディーレ(1518〜1560)らのヴェローナ派やヴェネチア派のティエーポロ(1696-1770)らの絵が展示されており、なかなか見ごたえがあります。
右は、この美術館の目玉でカロート作「人形の絵を持つ子供」。この写真ではちょっと見えにくいですが、子供が手にもっている絵を見ると、子供が書く絵というのは古今東西あまり変わらないので、古さを感じさせない、いきいきとした絵になっています。
なお、この城・美術館の改修は、有名な建築家カルロ・スカルパ(1906~1978)の手による
ものとのことで、展示物のみならず、古城自体の構造、窓からの眺めなどにも、観客の視線が自然に向かうような作りになっています。
さて、この古城から街の中心地ブラ広場までは5分とかからないのですが、そのローマ通りを広場の方に行くと右手にフィラルモニコ劇場があります。夏の野外オペラのシーズンが終わると、地元の人のためのオペラやコンサートを行う常設劇場です。その劇場とは反対側の左手にあるフィラルモニコ通りという小路を入ると、「海城大酒楼(Ritorante Cinese Capitol di Hu)」という中華料理店があります。
イタリア旅行をしていると、まずい食べ物にはあまり出くわさないのですが、それでもイタリア料理ばかりだと疲れてきます。最近ますますそういう傾向になってきました。そのため、我々は必ずカップヌードルを何食か携行するとともに、ヴェローナに来たときは、必ずこのお店で一回は食事をとり、モヤシ炒めや麻婆豆腐なんぞを箸(イタリア語ではバルケッタといいます)を使ってつまみながら、青島ビール(イタリア産のビールは不味いので、これを飲むとほっとします)とハウスワイン(地元の安ワイン、バルドリーノ)を飲むのを楽しみにしているのです。
「必ず」と書きましたが、1991年に初めてヴェローナに来たときにはこのお店はなく、代わりに「香港」というお店がありました。なんと、星つきではありませんがミシュランガイドに載っていたのです。当時のミシュランは、中華や和食の店を結構掲載してくれていたので、日本人旅行者にとっては便利だったのですが、最近はどうもそういうB級系の店は載せない編集方針のようです(東京のガイドにいたっては全部星つきですものね)。ただし、その「香港」はいかにもやる気のなさそうなお店だったので、案の定、94年に来た時には潰れていました。やれ困ったと思って歩いていると、ほど近いところにこの「海城」があったのです。
それから10数年。いつ行っても空いていますが、それなりに地元の人にも受け入れられているのでしょう。家族経営でがんばっているようです。おそらく華南方面の出身と思われる小柄で丸顔のおかみさんが店をとりしきっています。2〜3年おきに訪れる我々の顔を覚えてはいるらしいのですが、お互いにイタリア語で世間話をするのは億劫だという感じで、言葉少なに料理の注文のやりとりをするだけです。
メニューの品数は豊富で、飲茶、スープ、肉料理、魚料理、野菜料理、麺飯類がそれぞれ何種類も並んでいます。食材の関係でやや違和感のあるものもありますが、総じて広東系薄味のなかなか美味なものです。私どもが好きなもやしなどはイタリアで仕入れるのは簡単ではないはずですが、ちゃんとしたものが、ちゃんとした価格(肉類よりも安い価格)で出てきます。
よく経営が成り立っているな、と思っていましたが、昨年、このお店で夕食をしていたら、中国人の団体客に出くわしました。私どもが窓際の席についてまもなく、お店の人たちが、中央のいくつかの大きなテーブルに、大皿料理を並べ始めました。ご飯などは大きなボールにてんこ盛りで湯気を立てています。お客の姿がないのにこんなに並べてしまって大丈夫なのか、と思っていたら、予め観光バスから連絡が入っていたのでしょう、料理を並べ終わるとすぐにガイドに率いられたバス一台分の中国人の一団が風のように入ってきて、ものも言わずに大皿料理を平らげ、順番にトイレを使うと、風のように去っていきました。この間およそ30分。おそらく、ミラノの空港について、バスでヴェネチアに向かう人たちなのでしょう。
お店のテーブルには予めナイフとフォークがセッティングされていて、箸は頼まないと出てこないのですが、もちろん、この時の団体席には、箸が用意されていました。日本語と英語で箸の使い方が書いてある箸袋にはいった割り箸です。
もちろん、食後にフォーチュン・クッキーなどは出てきません。
「海城大酒楼」と並んでヴェローナに来ると必ず行くレストランが「イル・デスコ」。こちらは正真正銘ミシュラン2つ星です。すでに8月12日《カルメン》のところで、このお店でワインを飲みすぎてオペラで寝てしまった話はしました。
今年、私がとった料理は、「生ガンベリ(ザリガニ)のトマト入り冷製スープ仕立て」と「牛頬肉煮込みフォアグラ添え」だったのですが、過去の旅行記をチェックしてみると、2007年に全く同じ組み合わせの料理をとっているほか、昨年(09年)は「生ガンベリのミッラフォッリエ(ミルフィーユ)、ココナツミルクソース」と「牛のフィレ、アマローネソース、夏野菜のグラッセ添え」という具合に、ここ3回連続して毎回前菜はガンベリ、主菜は牛肉を注文していたことが判明しました(プリモのパスタやスープは記述を省略)。その時には、以前何を食べたのか忘れてしまっていて、メニューの中で惹かれたものを選んでいるだけなのですが、どうも一定の傾向が出てしまうようです。
いつも、地元のアマローネ系のずっしり重い上等の赤ワインを頼むので、まずメインはそれにあわせて伝統料理系の牛肉料理を選ぶ。前菜としては、それと対照的なあっさり系、創作系の一品ということで、つい生ガンベリを選んでしまう、という思考パターンです。我ながら、あまりにもわかりやすく、情けない。
なお、2002年の記録を見ると、イル・デスコで何を食べたのか書いてありませんが、アマローネに酔いしれ、その後の《カルメン》で寝てしまった、とあります。今年は全く懲りもせずに同じパターンを繰り返したわけです。これも情けない。
イル・デスコの食事のあとに観たオペラを調べてみると、昨年は《トゥーランドット》、07年は《アイーダ》、04年は《ラ・トラヴィアータ》、2000年は《運命の力》だったので、眠くならずにすんでいます。こうしてみると、《カルメン》は名曲だとは思うのですが、私が本当に好きなオペラではない、ということが判然としてくるようです。
マントヴァ
マントヴァは、ヴェローナから南へ50km弱。ロンバルディア平原のど真ん中ですが、街の三方を湖に取り囲まれていて、守りやすい地形という点が、ヴェローナと似ています。
世界遺産としてのヴェローナの見所は、ローマ時代の遺跡と、ルネサンスの面影を残す街並であるはずなのですが、架空の物語に基づく「ジュリエットの家」や、「ジュリエットの墓」などが堂々と存在し、大勢の観光客が押しかけて繁盛しています。「家」の中庭に立つジュリエットの銅像などは、おびんづるさんのように、さわるとご利益があるという話が広まって、胸の部分がてかてかと光ってしまっています。
マントヴァでも、以前は「リゴレットの家」というのをしつらえていて、中庭にリゴレットの銅像が立っていたものですが、今はまったく宣伝していません。おそらく、《ロミオとジュリエット》の場合は、原作にヴェローナという地名が明記されているうえ、一応史実をモデルにしている、とされているのに対し、《リゴレット》の方は、ユーゴーの原作《王は楽しむ》はフランス宮廷の話であり、オペラ化にあたって検閲対策のためむりやり場所をマントヴァにした、という経緯があるからでしょう。
それに、「ロミ・ジュリ」の悲恋は、ハートマークのグッズなどの売上にもつながりますが、せむし男の娘が遊び人の公爵に犯されるという話は家族連れの観光客には向いていません。マントヴァ市のひとびとは、ヴェルディの傑作を観光資源として活用することを断念したものと思われます。
もちろん、そんな架空の物語に頼らなくても、街にはパラッツォ・ドゥカーレ(公爵宮殿)という堂々たる世界遺産があります。傭兵隊長から出発した領主ゴンザーガ家の居城です。ご覧の通り、ゴンザーガ家が伝統的に神聖ローマ皇帝と同盟関係を結んでいたことを示すかのように、屋上のバトルメントはギベリン型です。
大きく分けてCorte Vecchia(旧宮廷)、Corte Nuova(新宮廷)、Castello di San Giorgio(サンジョルジョ城)の3つの部分からなる大建築です。建築時期からいうと、サンジョルジョ城、旧宮廷、新宮廷の順に建て増ししていったらしい。ソルデッロ広場に面した旧宮廷の見学入り口から階段を昇ってすぐのところにある大広間の天井下の壁に、ゴンザーガ家代々の当主の肖像画が描かれています。最初はカピターノ(隊長)、ついでマルケーゼ(侯爵)、最後はドゥーカ(公爵)となっています。
この建物で一番有名な場所が、入り口から行くと最も奥まった城塞部分にあるCamera degli Sposi(新婚夫婦の間)で、ルドヴィーコ3世(侯爵:1412~1478)がアンドレア・マンテーニャ(1431~1506)に描かせた壁画があります。西面の壁と天井のフレスコ画はほぼ完全な形で、北面の壁も主要部分が色鮮やかな状態で残っており、見事なものです。
2面の壁の絵は宮廷および戸外におけるルドヴィーコ3世本人とその家族の群像で、ドーム状の天井の中心はだまし絵の円い天窓になっていて、青空を背景に天使たちや孔雀などが部屋の中を覗きこんでいるという設定になっています。画業においてはレオナルドをしのぐ天才ともいわれるマンテーニャですが、ブレラ美術館にある有名な「死せるキリスト」のような強烈な個性を感じさせるわけではありませんが、確かな技術と色彩の美しさは格別です。それに、描かれているゴンザーガ家の人物たちの個性は強烈。侯爵はひとクセもふたクセもある冷徹で意志の強そうな面構えだし、夫人も美人とは言い難い。
パトロンをよくもまあこれだけリアルに、理想化せずに描ききったものだ、という点では、画家の強いプライドが感じられます。宮殿群の北端にあり、湖の眺めが良いので新婚夫婦の部屋として絶好のロケーションかもしれませんが、こんな絵に囲まれて暮らしたらぐったり疲れそうです。
なお、イゼベッラ・デステの夫になる後のフランチェスコ2世(ルドヴィーコ3世の孫)も子供の姿で、西面の絵の中に登場しています。
この部屋の入り口には、専属の係員がいて、一度に中に入る見学者の数を調整しています。撮影禁止でしたので、自分で撮った写真をご紹介することはできません。興味がある方は、「Camera degli Sposi」でネット検索すると全部の壁面の画像を見ることができます。
90年代前半にはじめてこの館を訪れた時には、20人くらいの見学者による案内人つきのツアーに参加しなければこのパラッツォの中に入ることができませんでした。その時は、単に建物を見て回るだけで、壁画と天井の装飾以外の美術品はほとんどない状態でした。最近は、ウルビーノと同じように美術館を兼ねていて、沢山の絵画作品が展示されており、ツアーに参加しなくても順路に従って見学できるようになっています。所蔵品のレベルは決して低いわけではありませんが、著名な作品は多くないようです。
壁画のレベルに関して言えば、上記のマンテーニャの作品を別にすると、街の南にあるテ宮殿にあるジュリオ・ロマーノ(1499?~1546)の一群の作品の方が、保存状態もよく迫力満点で私としては好きなものです。今回もこのフェデリコ2世(イザベラ・デステの息子)が愛人を住まわせるために作ったともいわれる離宮にも行ってみたのですが、あいにく、《リゴレット》の映画を撮影中で、一般見学者はすぐには中に入れないとのことで、見学者たちが入り口で待たされていました。
オペラにおけるマントヴァ公爵の享楽的な性格を考えると、壮大ではありますがやや陰気で古色蒼然たるパラッツォ・ドゥカーレよりも、マニエリスモの明るく豪奢な柱とアーチが開放的な空間を作っているテ宮殿の方が、《リゴレット》の宮廷シーンとしては、ふさわしいに違いありません。宮殿の横で、撮影クルーが休憩をとっており、その一団の中に、ジルダ役とおぼしき女性がチラリと見えました。
私どもは、その夜もオペラの予定があったので、撮影終了を待つことなく、そのままヴェローナに帰りました。
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