《ボリス・ゴドノフ》を聴くのは久しぶりです。長い、内容が暗い、メロディアスなアリアは少ない、ということで敬遠したくなる作品ですが、ムソルグスキーの音楽には独特の魅力があり、演奏者がよければ退屈しません。今回は、指揮者がワレリー・ゲルギエフ、題名役がルネ・パーペなので期待をもって観ました。結果は満足できるものでした。
今回は、ポーランドの場面(第3幕)も登場する1872年改訂版の方が演奏されたので、17:30に上映開始して、2回の休憩をはさんで21:45に終わるという長丁場です。また、第4幕の第1場(ボリスの死)と第2場(革命の場)は、入れ替えてボリスの死を最後にする演出も多いのですが、今回は原典どおり、革命の場が最後になっていました。
私は、この作品のナマ上演は、ずっと昔にネステレンコが主演したボリショイ劇場来日公演を聴いたきりなのですが、ボリショイ劇場は伝統的にリムスキー・コルサコフによる改訂版を使っていたそうなので、幕の構成やオーケストレーションの印象がかなり異なっていたように感じます。
METの《ボリス》は、1974年12月以来、2004年月まで、アウグスト・エヴァーディングの演出を20年の長きにわたって使ってきましたが、ついに今年から、スティーブン・ワズワースによる新演出となりました。フェルディナンド・ヴェゲルバウアーの装置、モイデレ・ビッケルの衣裳も簡素で奇を衒ったところがなく、非常にメッセージの明確な、わかりやすい演出です。
しかしながら、その解釈はストレートすぎて、この叙事詩的な大作を単純化しすぎているようにも感じました。たとえば、ボリスは最初から良心の呵責に悩んでいて、民衆は無知蒙昧で圧制に苦しみ、貴族たちは自己中心的な裏切り者、グリゴリー(偽ドミトリー皇子)とマリーナは野心家で、ピーメンと愚者はイイモンの憂国の士、といった具合。
METでは題名役ボリスを、70年代、80年代はもっぱらフィンランド出身のマルッティ・タルヴェラが当たり役にしており、その後、90年〜91年のシーズンはプリシュカ、ギャウロフ、ブルチュラーゼなどのスラブ系のバスが歌っています。ところが、97~98年にゲルギエフの指揮でサミュエル・レイミー(米国)、2004年にビュチコフの指揮でジェームズ・モリス(米国)、今回はルネ・パーペ(ドイツ)という具合に、ロシア語への馴染みとは関係なくその時のMETでトップのバス歌手を起用するという方針に変わってきているようです。ただし、今回の公演では主役以外のソリストはほとんどがロシア語圏出身者で占められていました。
ルネ・パーペは、声の威力、表現力、演技力など全ての面において期待どおりでした。ただし、上述の単純化志向の演出のせいもあるのでしょうが、ボリスという人物の複雑性、多面性が十分に表現されていないように感じました。また、ネステレンコやギャウロフの演奏に比べると、やはりなんとなく西欧風な歌唱スタイルが感じられ、ロシアオペラの様式感に乗り切れていないような気もします。
その点、同じバスの役柄であるピーメンを演じたミハエル・ペトレンコや、ワルラームのウラジミール・オグノヴェンコは、いかにも土臭い正統派ロシアン・バスの迫力がありました。オグノヴェンコは既にベテランですが、ペトレンコはまだ若そうでありながら、非常にいいバスだったと思います。
彼らのほかにも、ロシアには、イルダル・アブドラザコフとか、オルリン・アナスタソフなど、いいバス歌手がたくさんいます。それなのに主役のボリスはなぜドイツ人なのか、という話もあろうかと思います。しかしながら、ボリスの役は、《ドン・カルロ》のフィリッポと並ぶバスにとって最も重い役であろうということを考えると、立派な声を持っていても若手ではなかなか、METのような桧舞台に載るには、歌舞伎でいうところの「ニン」に合わない、「位負けする」ということがありそうです。その意味で、スカラでフィリッポも歌っているパーペは、当代のトップ・バスとしての実力と貫禄があるということでしょう。
グリゴリー(偽ドミトリー)を歌ったラトヴィア出身のテノール、アレクサンドル・アントネンコは、非常に力強く輝かしい声で、姿も若々しく、役によく合っていました。マリーナ役を歌ったベラルーシ出身のメゾ・ソプラノ、エカテリーナ・セメンチュクも力のある声で好演。
面白かったのは、通常はズボン役のメゾ・ソプラノがやるフョードル(ボリスの息子)を、本物の少年、つまりボーイ・ソプラノのジョナサン・メイクピースが演じていたことです。声変わり前ですからせいぜい12~3歳だと思われますが、堂々たる演技・歌唱(しかもロシア語)をみせていました。
従来英語での呼び名を「Simpleton」(日本語では「うすのろ」とか「白痴」などの役名があてられていました)とされていた役を、新演出では「Holy Fool」(今回の字幕では「聖愚者」という訳をあてていた)と呼び、歌う場面がないプロローグから演技者として登場させて、重要な役割を演じます。テノールのアンドレイ・ポポフが好演していました。
ムソルグスキー・オペラにおける主役のひとつ、合唱は、100名の正規団員に、40名のエキストラを追加したという大編成。私は、METでゲルギエフが指揮する《ホヴァンシチーナ》を観たことがありますが、彼が振るとアメリカ人の合唱団が本当にロシアの民衆になったかのように聴こえたものです。映画館の放映では、その地鳴りがするようなナマの迫力までは残念ながら伝わってきませんが、十分に聞き応えがあるものでした。
ただ、問題は映像監督のブライアン・ラージ。例によってソリストのアップが多用される撮り方で、合唱団の動きが十分に捉えられていないのです。舞台全体を写した画面が少ないのと、低い位置から人物を見上げるような角度に妙にこだわっているなど、どうも観ていて歯がゆくなる画面が多いのでした。オペラの映像というと、もう20年以上もの長きにわたり、ラージが第一人者とされていますが、私にはなぜ彼が起用されるのかよくわかりません。
早くテクノロジーが進化して、視聴者の方が見たいカメラ位置を選択できるようなシステムになってほしいものです。