西洋のオペラは冬が本格公演期間であるため、世界各地の主要歌劇場では、9月末(METなど)から12月の初め(スカラ座など)にかけて、新しいシーズンの開幕公演(プレミエ)に行われます。
歌舞伎の場合も、昔から11月から翌年の10月までがひとつのシーズンとされ、東京では11月に「顔見世大歌舞伎」と称して、主だった役者が勢揃いする興業が打たれてきました。京都四条南座では、それが12月に行われるのが恒例で、劇場正面に「まねき」と呼ばれる役者名がかかれた看板が掲げられ、師走の京都風物詩のひとつとなっています。
今年は、東京の歌舞伎座が工事中であるため、いつもより多くの東西の大物俳優が顔を揃え、華やかな顔見世興行となりました。例によって、週末を利用して京都に出向き、土曜日(17日)の夜の部と日曜(18日)を観てきました。
南座の顔見世では、初日から一週間ほどの間は、五花街(祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒)が入れ替わりで「総見」を行うので、桟敷席に綺麗どころが並ぶのを見ることができるのだそうですが、「土日は除く」とのことで、一度もこれに出会ったことはありません。しかしながら、それ以外の日であっても、いつも何組かの芸妓さん、舞妓さんが、旦那衆と一緒に来ているのを見ることができますし、一般の女性客にも和服姿が多く、しかもさすがに「着だおれ」の街だけあって、東京の歌舞伎座などよりはワンランク上という感じの着物を召したご婦人方が多いので、独特の華やかな雰囲気が客席にも立ち込めています。
舞台写真に群がる芸妓はん、舞妓はんたち贔屓筋から役者へ贈られる「竹馬」
さて、その夜の部。口あけの「外郎売(ういろううり)」は、例の事件で海老蔵が降板したことにより、急きょ片岡愛之助がつとめることになりました。市川宗家に伝わる歌舞伎十八番の演目のひとつですが、もともとは単なる薬(ういろう)を売る売人の早口口上を見せるだけの芸であったものを、当代の団十郎が曽我の対面の形式で上演するように仕立て上げたものです。したがって成田屋(団十郎、海老蔵)以外が「外郎売」をやるのはきわめて珍しく、愛之助にとっても初役であったと思われます。
海老蔵暴行事件があったのが11月25日、公演初日が11月30日でしたから、勉強する時間もほとんどなかったのではないでしょうか。最初の頃は大変だったと思いますが、私どもが観たのは17日ですから、既に落ち着いた演技で、口跡の切れはなかなかのものでした。上方歌舞伎の次代のスターとしては、よいチャンスをもらったものだと思います。
片岡秀太郎の養子である愛之助は、今でも大阪に在住しているのだそうで、最近は上方舞のひとつ楳茂都流の家元にもなっています。関西のファンとしては、海老蔵の辞退をむしろ喜んだ人が多かったかもしれません。
そして、圧巻は2幕目に上演された「仮名手本忠臣蔵七段目(一力茶屋)」です。大星由良之助(大石内蔵助)を中村吉右衛門、おかるを坂東玉三郎、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)を片岡仁左衛門という顔ぶれです。
南座の前の四条通りを八坂神社の方向へ200mほど行った花見小路の角に今もある「一力亭」を舞台とする芝居ですから、まさに「ご当地もの」。しかも、数ある歌舞伎演目の中でも名作中の名作ですから、これほど「顔見世」にふさわしい狂言はないといっていいでしょう。
劇場正面絵看板「仮名手本忠臣蔵(七段目)」
敵の高師直(吉良上野介)方をあざむくために、由良之助は祇園で遊興三昧をしています。
敵味方それぞれの侍が様子を見にやってきますが、本心を明かさずに、仇討のことなど忘れてしまったかのような遊びぶり。この遊蕩シーンは団十郎がうまいのですが、吉右衛門の場合は少し生真面目な感じが抜け切れません。そこへ息子の大星力弥(大石主税)が密書を持ってくるので、人ばらいをしてその巻紙を読みます。ところが、床下には、敵方に寝返った斧九太夫(大野九郎兵衛)、離れの中二階には遊女のおかるがいて、それを盗み見てしまいます。
これに気がついた由良之助は、おかるに戯れかけ、身請けをしてやろう、といい出します。おかるが塩谷判官(浅野内匠頭)の家臣早野勘平の女房であることを知りません。密書を見られたからには生かしておけぬ、と考えて身請けして連れ出そうというのです。茶屋の主人に話をつけるために由良之助が出ていくと、そうとは知らずに喜んだおかるが実家へ手紙を書きかけたところへ、おかるの兄で塩谷家の足軽、平右衛門がやってきます。忠義心の厚い平右衛門は、仇討の一党に加わりたくて由良之助に嘆願しているのですが、身分の低い足軽のため相手にしてもらえないでいるのです。
おかるから身請けの話を聞いた平右衛門は由良之助の意図を知り、おかるを斬ろうとします。驚くおかるに、兄は、おかるの父が殺され、誤解から勘平も切腹して死んだことを話して、素直に打たれてくれと頼みます。陰で一部始終を聞いていた由良之助が止めに入り、兄妹の心底見えたとして、平右衛門の討ち入り参加を許したうえ、床下に隠れていた斧九太夫をおかるに討たせ、夫に代わって敵の一味を討ったとして勘平の霊をなぐさめます。
この場面の玉三郎は、遊女姿の美しさ、由良之助とじゃれあう場面の色っぽさもさることながら、兄に会うと一転して無邪気で可愛い妹となり、夫と父の非業の死を何も知らずに、両親は達者か、勘平は達者か、と兄に尋ねる姿が実にいじらしく、前段(勘平切腹)の悲劇を知っている観客の涙をさそいます。
そしてクライマックスは、最愛の勘平の死を知らされる場面。観客にとってもぐっと緊張が高まるところで、おかると一緒に劇場全体が息をのみ、深い沈黙に包まれます。そのあまりにも重い緊張に耐えかねたかのように、そこでおかるが癪(しゃく)をおこし、それを介抱しようとする平右衛門との間でコミカルなシーンが展開します。悲劇のクライマックスで、ふっと観客の肩の力をいったん抜かせ、幕切れに向かって再び盛り上がる、という、観客の生理を考えた非常によくできた作劇法になっている場面です。
ところが、今回の仁左衛門と玉三郎の兄弟はちょっと違いました。永年数々の名舞台を作ってきたこのコンビならではの呼吸でしょうか。癪をおこすところはいつもと一緒なのですが、それを息抜きのコミックシーンにはせずに、そのまま悲劇のテンションをこれでもか、これでもか、とばかりに極限まで引き上げていくのです。
愛する人の死をにわかには信じることができない、というのが普通の女の心情でしょう。ところが、信頼する兄の切羽詰まった表情からそれが事実であることを悟り、おかるは大きな悲嘆に襲われます。兄もまた、そうした妹の心情を深く理解するがゆえに苦しげな表情を見せる。それがまた妹の悲嘆を増幅する。そうした触れば火傷をしそうな熱い感情のやりとりが一瞬のうちにふたりの間を流れるのが、癪を起した女を男が介抱するという型どおりの演技の中から、まさに観る者の心に食い入るように立ち上がって来るのです。
同じ顔合わせによるこの場面を今までに何度かみていますが、こんなに凄い愁嘆場は初めて観ました。大の男がみっともないと思いながら、涙があふれて来るのを止めることができませんでした。
4月の歌舞伎座さよなら公演の掉尾を飾った「助六」の揚巻も凄かったことを考えると、玉三郎は、ここへきて、何やらさらに一段高い芸の境地に達しつつあるのかも知れません。そして、それを触発していたのは、やはり団十郎であり、仁左衛門であるわけです。
吉右衛門もいい役者ですし、由良之助にはぴったりの芸風ですが、今回は、仁左・玉のカップルに完全にお株を奪われていた感じがします。それほど、今回の平右衛門・おかるの兄妹は特別な出来であった、といえましょう。
勿論、吉右衛門も翌日昼の部の「寺子屋」の松王では存分に泣かせてくれました。文楽の時もそうですが、竹本の太棹がチントンチントンベンベンベンと煽り立て、太夫がファルセットで慟哭するのを聴くと、どうも日本人の涙腺は甚だしく刺激されるものであるようです。
なお、昼の部では、松嶋屋三兄弟(我当、秀太郎、仁左衛門)による「沼津」も、予想以上に良い出来で、これもしみじみとした義理人情の世界を存分に味わうことができました。仁左衛門がいいのは当然として、我当の平作がなんとも言えないいい味を出していたのです。
「阿国歌舞伎夢華」での玉三郎は、夜の部とは一転して、豪華絢爛たるプリマドンナぶり。笑也、春猿ら今が盛りの美貌の女方陣を従えながら、ひときわ抜きん出た美しさと女座頭として貫禄を見せつけていました。60歳とはとても思えません。相手役の名古屋山三に仁左衛門が出てきたのも贅沢な配役で、やはりこのふたりは永遠のカップルです。ご両人の永年のファンとしては、海老蔵休演はラッキーな出来事でした。
とにかく、今回の南座12月公演は、豪華な配役(吉右衛門、仁左衛門、玉三郎、藤十郎、梅玉、魁春、我当、秀太郎など)だけでなく、プログラムの内容もいかにも「顔見世」らしい賑やかなショーケースぶりで、昼が「羽衣」「寺子屋(菅原伝授手習鑑)」「阿国歌舞伎夢華」「沼津(伊賀越道中双六)」、夜が「外郎売」「一力茶屋(仮名手本忠臣蔵)」「河庄(心中天網島)」「鳥辺山心中」「越後獅子」という具合でした。
特に夜の部はあまりにも盛りだくさんで胸やけしそうなメニューであったので、私どもは、鳥辺山以降をパスしてしまったくらいです。これで人気の海老蔵まで出るはずだったのですから、座席数約1000席の小屋でこんなに大盤振る舞いしてしまっていいのか、という感じです。