2001年12月の間に同じ「ドン・カルロ」をふたつの劇場で観ることができました。東京の新国立劇場とニューヨークのメトロポリタン歌劇場の公演です。聴き比べた結果をご報告します。
新国立劇場公演「ドン・カルロ」(12月12日)
ヴェルディ・イヤーの締めくくりにふさわしい演目です。演奏時間が長く、力のある歌手が大勢必要なので、それほど頻繁に上演される演目ではありませんが、今年は4月のサントリーホールオペラでも演奏されました。ブルソンとチェドリンスはその時と同じ演目での再来日です。私が観た12日はロドリーゴを歌うバリトンはブルソンではなく堀内康雄でしたが、彼が出演した日を聴いた人によると今回のブルソンはなかなか調子がよかったそうです。
今回の公演でなんといっても良かったのは、フィリッポ2世を歌ったバスのロベルト・スカンディウッツィです。エツィオ・ピンツァやチェーザレ・シェーピの後を継ぐいかにもイタリア的でしなやかな発声のバッソ・カンタンテとして、10年くらい前から私は注目していましたが、いよいよ歌い盛りの年齢になってきて低音に深みと迫力がでてきました。
サントリーの時のフルラネットや、後に述べるMETでのレイミーもよかったのですが、スカンディウッツィの場合は柔らかな鼻に抜ける美声を生かしてよりノーブルで内省的なフィリッポになっていたと思います。かといって絶対権力者としての威厳や迫力にも欠けるところがなく、前半に見せる王者らしい威厳があるからこそ、バスにとって極めつけのアリア「王妃は私を愛していない」での孤独感と苦悩が生きるわけです。
しかしスカンディウッツィが良すぎたので、他のふたりのバスがだいぶ見劣りしてしまいました。大審問官は澎康亮(ペン・カンリャン)、修道士は矢田部一宏です。全てのソリストをダブルキャストにしているのでバスの3役で6人も必要となり、日本のバス歌手の層の浅さを露呈してしまったような按配です。
最近新国立によく登場する澎康亮は悪くない声をもった歌手ですが、バッソ・プロフォンド(低くて深いいわゆる「どんバス」)の声で高音の張りも必要な大審問官の役にはスケール不足でした。サントリーの時のように無名でも強力な地声をもった若手(ハオ・ジャン・ティアンとイルダル・アブドラザコフ)を起用する、といったことができなかったのかな、と思います。
バリトンの堀内康雄はなかなか健闘していました。私がニューヨークにいる間に活躍しはじめた人なので、日本人離れした声とセンスをもっているとバリトン好きの妻から噂だけは聞いていたものの、これまで聴く機会がありませんでした。たしかに目をつぶって聴くとイタリア人が歌っているのかな、と思えるほど様式感、発声、発音に違和感がなく、うまい演奏でした。ロドリーゴの役はどうしてもバスティアニーニの決定的なイメージがあるので他のバリトンで100%満足というわけにはなかなかいかないのですが、スカンディウッツィは別格として、今回登場した外国人ソリストたちに一歩もひけをとらない出来だったと思います。
ソプラノのフィオレンツァ・チェドリンスを聴くのは今年になって3回目。1月のトロヴァトーレ、前回のサントリーホール公演の時と同じように強い芯と輝きを持ったリリコ・スピントの美声が最後まで衰えを知らないこと、その声のスタミナと安定した歌いぶりには驚かされます。前2回に比べてやや感動が薄いとしたらそれはおそらく彼女のせいではなく指揮者がダニエル・オーレンでないからかも知れません。貴重なヴォーチェ・ヴェルディアーナ(ヴェルディのオペラ向きの声)でテクニックもしっかりしているのでヴェルディ・イヤーの今年は各地でひっぱりだこだったのではないか、と推察されますが、若いせいか、あまり疲れている様子はありませんでした。後にMETでゴルチャコーワの同じ役を聴いたのと比べても、チェドリンスの声の強さとスタミナは際立っています。
テノールはフランコ・ファリーナ。声はやかましすぎるくらいに響いていました。それでも何かもの足りなさを感じるのは何なのか、よくわかりませんが、後半だいぶよくなったものの一本調子の歌い方という彼自身の問題と、確かにドン・カルロはタイトル・ロールなのですがヴェルディはあまりこの役にいい音楽をあたえていない、ということがあるのかも知れません。イタリア風の名前ですが、コネティカット生まれのアメリカ人。
もうひとりのアメリカ人ソリスト、メッゾ・ソプラノのバーバラ・ディーヴァーが不調でした。もともとエーボリ公女は「呪われしわが美貌」でメゾにとってはキツイ高音がある難役ですが、それだけに歌い映えのするキーロールです。ところが、その高音を避けてしまったのでおかしいな、と思っていたら段々声が出なくなり、明らかに音声障害を起こしているような感じでした。
指揮のダニエレ・カッレガーリは、今回新国立には初登場の若手。上にも書いたようにオーレンなどと比べるとヴェルディらしい熱気がやや不足気味で、こじんまりとまとまった演奏に思えました。
演出は、アルベルト・ファシーニ。原演出・美術・衣裳ルキーノ・ヴィスコンティによるローマ歌劇場のプロダクションを持ってきたとのこと。
ヴィスコンティ演出の「ドン・カルロ」は、ロンドンのコヴェント・ガーデンのものがヴィデオになっていますが、それよりずっと色彩的にきれいな舞台でした。いかにも欧州らしい石造りの質感のある重厚で写実的なつくりの装置と見事な色彩感覚のシーンが多い中で、第3幕第1場の王の居室だけがフィリッポの虚しく索漠とした心を象徴するかのように簡素なのが印象的です。また、各場面でだまし絵のような誇張された遠近法が多用されているのも、単に奥行きを出すためというよりも、空間がゆがんでいるように見える効果を狙っているものと思われ、息子の婚約者を父が結婚してしまったというアンバランスが生んだこの悲劇を象徴しているのでしょう、単なる写実的な美術ではないセンスが感じられました。
METの舞台も豪華さでは負けていませんが、色使いのうまさと、この演出の意図がはっきり感じられるひとひねりがやはりヴィスコンティの才能なのでしょう。
メトロポリタン歌劇場公演「ドン・カルロ」(12月29日、ニューヨーク)
この演目としては今シーズン初日の公演です。指揮者とキャストがよく、特にフヴォロストーフスキィのロドリーゴが聴きたくて、9月11日のテロ事件の前からニューヨーク行きの航空券とホテルの手配を済ませていました。
オペラのチケット自体の一般発売は9月末でしたので、優先購入ができるシーズン会員のつてはないか、と探しているうちに事件が起こってしまい、席がとれなければ取れなければ渡航自体をあきらめようと思っていましたが、インターネットで簡単に席がとれてしまいました。オーケストラ(平土間)席で1枚190ドルです。私が駐在していた3シーズン前は週末でもたしか155ドルだった思いますので、かなり値上がりしています。
今回ニューヨークに行って気がついたのは、レストランで飲む高級ワインなど、贅沢品の価格が東京よりも高く、バブリーになっていることでした。街は例年の年末にくらべるといくぶん地味でしたが、米国内からの観光客があふれかえっているので活気はありました。5番街の路上やティファニー、フェラガモなどで日本人を殆ど見かけないという点が大きく変わった点です。一方、METの平土間席では日本人を沢山みかけました。日本からの観光客は激減していますが、駐在員は年末年始の休暇でも旅行をせずに市内にとどまっている人が多いからなのでしょう。
さて、オペラの中身です。METのドン・カルロは1989年に観て以来実に12年ぶりです。95年から99年にかけて私が駐在していた時には一度も上演されていませんし、プログラムによると長いMETの歴史の中で168回目の公演となっていますから、1000回を超える「アイーダ」や「椿姫」など他のヴェルディの名作に比べると圧倒的に上演頻度が少ないといえましょう。低音部に強力な歌手が何人も必要であるのと、テノールに活躍の場が少ない、上演時間が長い、ということが影響しているのでしょう。上演時間については、METの場合、フォンテンブローの場もある5幕版なので、7時開始で11時40分終了(休憩は2回だけ)という長さでした。
今回のキャストは、ワレリー・ゲルギエフ指揮、ガリーナ・ゴルチャコーワ(エリザベッタ)、リチャード・マージソン(ドン・カルロ)、ドミトリー・フヴォロストーフスキィ(ロドリーゴ)、サミュエル・レイミー(フィリッポ2世)、イリーナ・ミシューラ(エーボリ公女)、パータ・ブルチュラーゼ(大審問官)、ダニエル・スメーギ(修道士)といった顔ぶれです。
まず何といっても、バリトンのフヴォロストーフスキィです。彼は人気絶頂にもかかわらず、今まで広いMETで歌う役柄を慎重に選んできました。1995年にエレツキー(スペードの女王)で初登場して以来、ヴァランタン(ファウスト)、ベルコーレ(愛の妙薬)、ジェルモン(椿姫)と、出番は少ないが歌い映えのするアリアを持つ役を一歩ずつこなしながら機会を伺っていたような感じがします。酷使されすぎて声を壊してしまったロシアの先輩、ウラジミール・チェルノフの轍を踏まないようにしようということなのでしょう。
そして遂に今回、ヴェルディ・バリトンの極めつけ、ポーザ侯ロドリーゴを歌うことになりました。結果は期待にたがわぬ出来だったと思います。第2幕冒頭、サン・ジュスト修道院の礼拝堂でテノールのマージソン扮するドン・カルロが祈る傍らにロドリーゴが初めて現れた時、歌舞伎などでいわゆる「ジワがたつ」という現象がおきました。劇場内にさざなみがたつように観衆の息をのむような雰囲気がいっせいに起こったのです。
大きな丸顔で木こりか農夫が似合いそうな巨漢マージソンに比べて、すらりとした足に黒い皮の長靴をはきプラチナブロンドの長髪をなびかせた姿は水際立った貴公子ぶりで、ダーク・ハニー・メロウ・ヴォイスと評される美声とあいまって、満場の婦女子の注目を一身に集めてしまった感がありました。その美声も、エリザベッタに対してカルロと会うことを願い出る場面でのカンタンテなメロディーを十全に表現しただけでなく、以前より力強さが増していて、フィリッポとの2重唱で身の危険を顧みずに絶対権力者の王に向かって批判するところでは、スリルと迫力に満ちた丁丁発止のやりとりが現出しました。
そして勿論、最高の聴き所は第4幕牢獄の場での「ロドリーゴの死」。ノーブルで男らしく悲劇的なこのアリアは、まさにヴェルディ・バリトンという特別な声のために書かれたことを実感させてくれます。自身がエットレ・バスティアニーニのファンで彼のレコードを擦り切れるほど聴いたというフヴォロストーフスキィは、まさにエットレ流の暗みがかった美声そのものが持つ悲劇性を活かしたスタイリッシュな歌い方をしますが、一方でその影響から脱却して自分の個性にあった歌いまわしも身につけつつあるように思われます。バスティアニーニより少し声が軽い分、敏捷性にすぐれているため、トリルなどもきちんとかけて歌い、嫌味にならない程度に頭声を混ぜたソット・ヴォーチェを使うなど、直球一本やりではないうまさも見せてくれました。
しかし、聴かせ所の高音を中音域と変わらない暗みがかった重さを持った胸声のままで輝かしく響かせてくれるところや、ヴェルディのメロディーがもつ様式感に合ったカンタービレな表現、発音の美しさなど、あくまでも正統的なヴェルディ・バリトンにふさわしい歌いぶりだったと思います。
もうひとりの低音の主役、フィリッポを歌ったレイミーもよい出来でした。やや悪魔的に響く声の威力は十分すぎるほどで、世界の半分を支配するという当時の最高権力者の威厳は十分でした。しかし、フルラネットの場合もそうなのですが、しなやかさ、陰影のある表現、声そのものが持つ魅力という点でスカンディウッツィには一歩譲るという気がします。バスにとって最高のアリア「王妃は私を愛していない….一人寂しく眠るだろう」での感動の深さは東京の新国立公演の方がありました。
ただし、上記のロドリーゴとの第2幕のやりとりに加え、第4幕の大審問官(宗教裁判長)との対話、このふたつのフィリッポがからむ男声低音よる丁丁発止の2重唱の劇的な興奮度合いは、METの方が数段勝ります。勿論相手役の格が違うということもありますが、やはり受けてたつレイミーの声の威力と劇的表現力もすぐれていたのだと思います。
さて、その大審問官に、フィリッポで出てもおかしくないブルチュラーゼを持ってきたところがMETらしい豪華な配役です。(実際今シーズン中にMETでフィリッポの方も歌う予定になっています)。これはもうレコードを含めて私が聴いた過去最高の大審問官といっても言い過ぎではなく、あの深々とした重い声で高音もすばらしく張りがありよく響いて迫力満点、本当に鳥肌ものの場面でした。
また、修道士(カルロ5世)役の若手バス、ダニエル・スメーギも立派な声でした。第3バス歌手ということで軽視されがちな役ですが、4幕版でいえば冒頭の幕開けと最後を締めくくる重要な役で、これを非力な声で歌われるとこのオペラの持つ重厚な悲劇性が薄らいでしまう気がします。この点でもさすがにMETは層が厚く、無名の若手にいくらでも声のある歌手がひしめいていることが感じられます。
低音系が重要な役割を果たすこのオペラでもうひとりの主役、エーボリについてもMETの方が断然上でした。シーズン前の配役予定ではエーボリを歌う予定になっていたオリガ・ボロディナを聴けなかったのは残念ですが、同じロシア出身のミシューラも好演でした。暗めのビロードのような声質のボロディナに比べると、ミシューラはソプラノに近い明るくやや軽めの声で、高音も難なく出しますが、力強さは十分にありました。それにしても、ジャチコーワやテレンティエーワなどロシア系には、力強いメッゾ声の人が無尽蔵にいるような気がしてしまいます。
ゴルチャコーワのエリザベッタは、舞台姿が美しくサマになっていましたが、最後のアリア「世のむなしさを知る神よ」はスタミナ切れかやや声の力が不足していました。もともとこの役は彼女の声には少し重すぎるのかもしれません。ヴォーチェ・ヴェルディアーナのリリコ・スピントにはもう少し輝かしさと強靭さが必要だと思います。
カナダのテノール、マージソンはよく響くスピント声で、輝かしさという点では新国立のファリーナと互角、歌のうまさは上、容姿はだいぶ見劣りがする、ということで、総合点ではやはり引き分けでしょうか。いずれにしてもこの役は、12年前のMET公演そして今年のサントリーホール公演でドン・カルロを歌ったニール・シコフあたりが一番合っているような気がします。
指揮のゲルギエフは期待どおり。今回は全く棒を持たずに素手による振りを通し、合唱を含めてたっぷりと、声と歌が中心の絢爛たる大悲劇を聴かせてくれました。主役級はロシア人中心にアメリカ人とカナダ人、そしてアメリカのオケとコーラスでありながら、十分に白熱のヴェルディであったと思います。おそらくミラノで上演したとしても大喝采を得ることができたでしょう。
ジョン・デクスター演出、デヴィッド・レッパ装置によるプロダクションは基本的に12年前のものと変わっていなかったように思います。衣裳や人物の動かし方に少し変わったところはありますが。METらしい重厚で豪華な舞台ですが、ヴィスコンティのような才気は感じられませんでした。舞台美術という点では、新国立の方が明らかに上だったと思います。
「クラウンド・ゼロ」
オペラ「ドン・カルロ」はフェリペ2世治下のスペインの物語です。このオペラの中で、フランドル独立を擁護するポーサ侯爵ロドリーゴが、当時世界最強国の絶対権力者、フェリペ2世に対して、彼の武力による弾圧政策を非難して言います。
「フランドルでは、家々は焼き尽くされ、巷には家族や財産を失った人々の悲しみの声が満ちている。」「あなたがもたらしたものを平和というなら、それは血まみれの平和だ!」METの座席ごとのスクリーンに表示される字幕をみながら、今ブッシュ大統領とアフガニスタンのことを思い浮かべているアメリカ人がどのくらいいるのだろうか、と思ってしまいました。
ニューヨークでは、到着した翌日に、地元で「グラウンド・ゼロ」と呼ばれている世界貿易センタービルの跡地を見にいってきました。地下鉄チェンバース駅の出口から地上にあがると、まだ数ブロックあるのに、あたりには心なしか焦げ臭いにおいが漂っているように感じます。
12月30日からは見学者用デッキがオープンしたそうですが、私が訪れたのは28日だったので、「現場」は、ビルの谷間から工事用フェンスごしにクレーンが働いているのが見えるだけでした。それでも、あの巨大なビルがあった場所がぽっかり穴が開いたような空間になっていて、得体の知れぬ空虚さを感じさせます。
その空間の向こう側に見えるビルの黒い壁いっぱいに大きな星条旗が描かれていました。米国各地から集まってきたたくさんのアメリカ人があたりを訪れていて、家族揃って静かに街を歩き、9月11日の悲劇を追体験しようとしているようにみえます。それは物見高い見物客というよりも、いわば聖地を訪れる巡礼のような気分であるようです。
工事用フェンスの一角には、まるで道祖神の祠のように簡素な祭壇がしつらえられ、十字架の前にろうそくや花、その他のお供え物がおかれていたり、傍らの教会の柵には犠牲者の写真やメッセージが張り出され無数の花束やリボンがくくりつけられています。人混みをあてこんで、沿道には露天の土産物屋が並び、FDNYやNYPDのロゴ入りの帽子やTシャツ、ありし日のWTCビルの写真、グラウンド・ゼロに星条旗を掲げる消防隊員の絵などが売られていますが、あまり買っている人はみかけません。あの事件を商売のタネにするのは不謹慎だと感じる人も多いようです。
よくみると、「巡礼」の人々の多くは白人、露天商の多くは黒人かアジア系です。「事件」はやはり宗教戦争であったのか、という印象を改めて感じさせます。それは、キリスト教対イスラム教というよりも、「アメリカ教」対「非アメリカ教」というべき価値観の対立かもしれません。
「グラウンド・ゼロ」というのは、もともと軍事用語で「原水爆の爆心地」をさす言葉だそうです。がれきの山だった当時の惨状をみて誰かが思いついたのでしょうが、その人は、ヒロシマ・ナガサキの写真を見たことがあるのかも知れません。しかし、大部分の「巡礼の人々」にとっては、この言葉本来の意味でのグラウンド・ゼロが日本にあること、そこでは非戦闘員の大量虐殺という点では今回の比ではない行為が星条旗を身につけた爆撃機によって行われたということ、は思いもよらないことであるのに違いありません。
ほんとうに痛ましい事件であり犠牲になった人々を哀悼する「巡礼」の人々の純粋で敬虔な気持には全く同感ですが、ともすれば自分たちだけが被害者であるかのような思い込みと過度な愛国主義に振れている今のアメリカには危ういものも感じます。また、事件直後に真珠湾攻撃がよく引きあいに出され、今また「グラウンド・ゼロ」という言葉が使われている、こうした「無神経」に対して、日本政府は何も言わないのか、と歯がゆく感じられる今日このごろです。