2011年1月10日に東劇でMETライブビューイングの映画を観ました。2010年12月11日にMETで上演された《ドン・カルロ》の映像です。
今年6月のMET来日公演でも《ドン・カルロ》は上演される予定ですが、それは1979年以来使われてきたジョン・デクスター演出、デヴィッド・レッパ美術のプロダクションを持ってくるのだそうです。それに対し、ニューヨークでは今シーズンから、ニコラス・ハイトナー演出、ボブ・クロウリー美術の新演出となりました。新演出はこのライブ・ビューイングで見るしかないわけです。結果としては、平凡で古色蒼然たる旧プロダクションより色彩的には綺麗ですが、格別に良くなったというほどのことはありませんでした。
巨大なカルロ5世の墓や寺院の柱、精緻な彫刻を施した黄金色に輝く聖堂のファサードなど、ストレーレルとの名コンビで有名だったエツィオ・フリジェリオの亜流としか思えない具象的で豪華な大道具と、原色の積み木のような幾何学模様の壁やSFかサイバーパンク風の四角い小窓の列から光がさす側壁などの抽象的でモダンな装置が混在していて、中途半端な舞台美術であったためです。
衣裳も中途半端で、フェリペ2世の時代の宮廷衣裳をそのまま模したものではなく、かといって完全に時代を置き換えたものでもありません。
特に納得がいかないのがエリザベッタのヘアスタイル。第1幕フォンテンブローの場面の娘時代から、第2幕以降の王妃になってからの姿に何の変化もなく、金髪のおさげ髪のままなので、王妃の威厳や貫録どころか、人妻らしさも感じられません。演出そのものはやや説明過剰気味ではあるものの細かいところまで考えられたわかりやすいもので、音楽を邪魔することはなかったと思います。
とにかくお金をかけたわりには才気を感じられない冴えないプロダクションであるとしかいえませんので、日本にこれが来ないことを悔しがる必要は特になさそうです。
むしろ主役クラスの顔ぶれは来日メンバーの方がずっと豪華なので、その点でも日本のファンは安んじて高いチケットを負担してよろしいかと思います。
ただし、男声陣については、このMET公演も、私が想像していた以上に出来がよかったと感じました。
特に、題名役を歌ったロベルト・アラーニャ。ナマで聴いているわけではないのではっきりしたことはわかりませんが、以前のようなヴィブラートを多用した柔らかな発声から、マスクにきちんと当てて直進性の強い輝かしい声を出す発声に変えて、よりスピントがかった声になってきているように思えます。その強めの声を生かした豊かな表現力で、カルロを複雑な陰影を持った人物に仕上げていました。
ヴェルディのテノール役は、愚直なまでに誠実に愛に殉じる一方で、愛する人の誠意を疑って簡単に逆上したりする、直情径行型の単純な人物として描かれることが多く、このドン・カルロも、ともすればそうしたタイプになりがちです。ところが、今回のアラーニャによる王子は、単純に失った恋人に対する未練を断ち切れないお坊ちゃんであるよりも、もう少し「オテッロ」に近い、コンプレックスを背負った英雄的人間の苦悩という、彫りの深い普遍的な人物像を描き出せていたように感じるのです。
題名役にこのような性格を感じさせたのについては、アラーニャが好演したというだけでなく、ポーサ侯爵ロドリーゴを歌ったサイモン・キーンリーサイドの役作りも少なからぬ影響があったような気がします。
これもナマではないのではっきりとは言えませんが、キーンリーサイドの声はこの役には少し軽いのではないかという予想に反し、響きは意外に重厚で、この「男の中の男」というべき人物に当ててヴェルディが書いた崇高なメロディーを朗々と歌い上げるのについてほとんど不足はなく、歌い方もスタイリッシュで様式感にのっとったものでした。
ところが、ユニークであったのはその演技です。通常この役を歌うバリトンは、ヴェルディが立派な音楽を与えているということもあって、絶対君主の王を前にしても一歩も引かない理想主義的な政治家であるとともに、たよりない王子の庇護者としてふるまう、堂々として颯爽たる人物としてポーサ侯爵を描きます。ところが、キーンリーサイドが演じるポーサは、あくまでも臣下としての立場をわきまえた補佐官的な態度で王子に対するので、そのしぐさや表情がいかにもイギリス人的であることもあって、まるでワトスン博士かヘイスティングス大尉を演じているかのような印象を与えるのです。
演技なのか本当に悪いのかわかりませんが足を引きずるようにして歩き、いつも体が少し傾いているような姿勢も「颯爽」からは程遠い姿です。このようなロドリーゴは初めて観ました。来日公演でこの役を歌うフヴォロストフスキーとは、おそらく対極といえる解釈になると思いますが、この歌手のキャラクターを生かした役作りという意味では、これはこれであり、という気がしました。
さて、《ドン・カルロ》は、男女の関係、父と子の関係、スペインとフランドルの関係、王権と教会の関係などの間の緊張感が織りなすドラマですが、これらの全ての関係の中心にいる人物がフィリッポ2世です。まさにバス歌手にとって最高峰の役。フェルッチョ・フルラネットは、深みのある豊かな響きの声でこの役にふさわしい存在感を示していました。
聴かせどころのアリア<王妃は私を愛していない〜ひとり寂しく眠ろう〜>も、確かな様式感をみせ、スカラ来日公演の時のルネ・パーペに比べて、はるかに満足感の高い演奏でした。しかしながら、これは説明過剰の演出のせいもあろうかと思いますが、絶対君主の孤独感よりも、年の離れた若い妻に対する老いた夫の弱気と惨めさを少し強調しすぎていたような気もしました。
他のふたりのバスのソリスト、大審問官(宗教裁判長)のエリック・ハーフヴァーソン、修道士のアレクセイ・タノヴィツキィもなかなか立派な声で好演していた。
以上のように、なかなか充実した男声陣に対し、エリザベッタとエーボリは、来日公演のメンバー、フリットリとボロディナの方がはるかに上であろう、という出来でした。
エリザベッタを歌ったのは、マリーナ・ポプラフスカヤ。今シーズンのMETでは、新演出の《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》(ネトレプコ主演で話題になった2005年ザルツブルグ音楽祭ウィリー・デッカーのプロダクション)の主役にも抜擢され、今売り出し中の若手ソプラノ。
「容姿に恵まれ」という評価もあるようですが、私に言わせれば、今を時めくネトレプコや10年前にMETでこの役を歌ったゴルチャコーワなどに比べると美人度はイマイチであるように思えます。往年のジョーン・サザーランドを彷彿とさせる花崗岩的アゴの持ち主で、アップになると(若いはずなのに)小じわが目立つなど、大画面の映像ではちょっと苦しいものがあるのです。ただし、前述したように、王妃になってからも小娘のようなヘアスタイルや地味なドレスなど、本人のせいではない部分で「減点」の多い姿をさせられているので、少し気の毒な面もありました。声や歌唱力は、主役としてはまずまずといったレベルだと思います。
エーボリはアンナ・スミルノワ。この人は、最近各地でアムネリスやエーボリで起用されているので、その実績が買われたのでしょう。これがMETデビューですが、現地での評判も芳しくないようです。ポプラフスカヤよりもさらに違和感のある容姿については、あえて言うのはやめましょう。オペラ歌手においては致命的なことではないからです。問題なのは、声そのもの。ヴェルディのメッゾ・ソプラノ役をするには、致命的に中・低音域の迫力が不足しているのです。かと言って、<ヴェールの歌>のような軽い場面においても、歌のスタイルを踏まえているように思えないし、高音域は強いのですが輝かしくはないのです。
指揮者のヤニック・ネゼ=セーガンは、初めて聴く若手でしたが、なかなか良かったです。フランス系カナダ人ということで、今までフランス・オペラを降る機会が多かったのだそうですが、ヴェルディの指揮に関しては、ジミー・レヴァインよりもいいかも知れません。溌剌として小気味のよいテンポ、金管や打楽器の派手な鳴らせ方、合唱シーンやコンチェルタートの盛り上げ方など、ヴェルディらしさを十分に楽しめる熱気にあふれた演奏でした。
以上、今回のライブ・ビューイングは、十分楽しめる演奏でしたが、6月の来日公演での聴き比べがますます楽しみになってきました。
今回この映像を観て、題名役のドン・カルロは、やはりイケメンのテノールが歌わないと主役らしい存在感が出せない、ということを改めて認識しました。来日公演では、アラーニャとはタイプは違いますが今売り出し中のイケメン・テノール、カウフマンが歌う予定ですので、この条件はクリアです。しかしながら、ロドリーゴ役が同じくイケメンでしかも圧倒的な存在感のあるフヴォロストフスキーになりますので、両者の力関係が同じようなわけにはいかないでしょう。そのへんがどうなるのか。
前述したように、女声陣は、経験と歌の実力、容姿、どれをとっても来日メンバーの方が上といえましょう。指揮者とフィリッポについてはなんとも言えません。
しかしながら、いずれにせよ、2011年6月のMET来日公演のメンバーは、2009年のスカラ来日公演よりはずっと充実したラインナップであり、現在世界を見渡してもベストに近い布陣であることは確かです。とにかく、《ドン・カルロ》という作品は、日本ヴェルディ教会の人気投票でもヴェルディ作品の中でナンバーワンになっているくらい、ヴェルディという作曲家の素晴らしさが凝縮された作品です。これをこのようなキャストで、ナマで観ることができる日本の聴衆は非常にラッキーであることは確かだと思います。