以前キーロフ・オペラと称したザンクト・ペテルスブルグのマリインスキー劇場の来日公演「トゥーランドット」を観ました。ソ連時代の1988年にワレリー・ゲルギエフが音楽監督に就任した以来、彼が一貫して歌手、オーケストラ、合唱を指導育成し、今や西側の主要歌劇場と肩を並べる一流オペラカンパニーになったといってよいでしょう。
ゲルギエフは、ロシアものは勿論のことロッシーニ、ヴェルディ、ワーグナーなど幅広いジャンルのオペラ、そしてシンフォニーでも、数々の名盤を録音・録画している現代で最も多忙な指揮者のひとりです。今回の来日公演でも、2月12日から20日の9日間に、そのゲルギエフがオペラ(《影のない女》と《トゥーランドット》)5公演、演奏会形式オペラ(《トロイアの人々》)1公演、特別演奏会(《ワーグナーの夕べ》と《ロシア音楽の夕べ》)2公演の全てを振るというスーパーマンぶり。その最終日となったこの公演でも、疲れた様子は微塵も見せず、色彩豊かなプッチーニ最後の作品を、白熱の演奏で聴かせてくれました。
私どもがすわったのは、NHKホール2階センターの一番後ろ、上には3階席が大きく覆いかぶさり、後ろも横もすぐに壁という隅っこという非常に条件の悪い席でしたが、それでも十分に楽しめたのは、ゲルギエフのエネルギッシュでメリハリの利いた指揮とレベルの高いソリスト陣、練り上げられた合唱とオーケストラといった総合力によるものだと思います。
今回のソリストの中で、特に印象に残ったのは、リューを歌ったヒルダ・ゲルズマーワ。リューというキャラクターがあまり好きでない私ですが、その私でさえこの日のリューなら涙が出る、というくらいに感動しました。プッチーニとのあらぬ不倫の疑いをかけられて自殺した若い女中のために書いた、といわれる作曲者の哀惜の情がしみじみと伝わってくる気がしたものです。
ネトレプコよりは少し明るく軽めの典型的なリリコのやさしい美声なのですが、直進性がありよく通るので、上記のような音響条件の悪い遠い席までも合唱やオーケストラを突き抜けて十分に聴こえてくるうえ、フレージングも確かです。以前から逸材というウワサは聞いていましたが、初めて実物を聞いて納得です。
マリア・グレギーナのトゥーランドット姫を聴くのは、昨年夏のヴェローナ以来、2回目です。その時も感じたことですが、現役ソプラノの中で最もこの役にふさわしい声の持ち主であることは論を待たないながら、90年代にナマで聴いたゲーナ・ディミトローヴァやエヴァ・マルトンの歌唱に比べると、「氷のような姫君」の強さが十分に出ていないもどかしさを感じる部分もあるのですが、それでもその迫力は並ではありません。
謎解き場面の前に歌う<この宮殿の中で>の部分で多少の不足感を覚えるのは、おそらく、フレージングが十分に滑らかで大きな弧を描くことなく途切れがちになることから来るのだと思いますが、それは舞台装置の足場も影響していたかもしれません。舞台の床は客席にむかってかなりの傾斜(おそらく25度くらい)しており、中央は直径10mくらいの可動式円盤になっています。
トゥーランドット姫がこの円盤の上に乗り後方に立ったあとで円盤が回転すると、周囲の舞台とは傾斜の方向が変わります。円盤が半回転して前方にやって来た姫は周囲の舞台より1mほど高い台の上で歌っているような形になるわけです。つまり歌手は、爪先あがりの不安定な姿勢であの重いアリアを歌わなければならないのです。これはちょっと歌手にとって酷ではないか、と思いました。
オペラハウスの舞台は客席に向かって少し傾斜しているのが普通ですから、爪先下がりの傾斜なら歌手も慣れているはずですが、この場面は反対の、しかもかなりきつい傾斜なのです。
シャルル・ルボー演出、イザベル・パルティオ=ピエリ美術の舞台は、全体としては、オーソドックスながらも美しく才気が感じられるなかなかよいプロダクションでしたが、この傾斜した足場の件だけが問題だと感じました。カティア・デュフロの衣裳は、よくある京劇風のデフォルメされた派手なものではなく、映画「ラストエンペラー」などを想起させる清朝時代を模した比較的写実的なデザインでした。
カラフを歌ったウラジミール・ガルージンは、現役で最もパワフルなドラマティック・テノールといえます。そのバリトンのようなたくましい音色で驀進する<誰も寝てはならぬ>を聴く一種爽快なまでの快感は、偉大な声そのものに驚異するというオペラの根源的な悦楽のひとつを思い起こさせてくれるものです。
テノールの声には、もっと甘さや艶やかな輝きがほしい、という向きも多いかとは思いますが、純情可憐なリューを犠牲にするクールさと、氷のような姫君の心を溶かす熱血をあわせもつスーパーヒーロー、カラフを演じるには、このくらい英雄的な声がふさわしい、と私は考えます。
つまり、カラフとトゥーランドットは男神、女神であって、人間であるリューには所詮手が届かない世界なので、自分を生贄として捧げるしかない。同じ神ならぬ身である私たちは、そうしたリューのけなげな死に涙することによってカタルシスを得る。それがこの物語の構図なのだろうと思います。今回の主役の3人は、そうしたキャラクターを十二分に体現していたので、ここまで私たちを楽しませてくれることができたのでしょう。