梅雨空の下、原宿駅前からNHKホールへ向かって歩きました。
代々木体育館ではなにやら若者向けのコンサートがあるらしく入り口付近に大勢の少女たちが群れているのやサーカス《クーザ》のテントを横目でみながら、ごちゃごちゃと屋台がたち並んで狭くなった井の頭通りの歩道を抜け、野外音楽堂から聞こえる大音量の喧騒を振りはらって、やっと劇場の中に入るとそこには別世界が待っていました、と言えればいいのですが、NHKホールの天井が低くて狭苦しいあの不細工なホワイエは、シャガールの大壁画とステューベングラスの大シャンデリアを見上げながら赤絨毯を踏みしめてのぼるメトロポリタン歌劇場の白と金色に輝くロトンダとは雲泥の差で、同じ劇場体験でも、《助六》の揚巻さんの言葉を借りれば「鳴門の海と硯の海」「雪と墨」くらいの違いがあります。
しかしながら、この日行われた《ドン・カルロ》の公演は、私がそのメトロポリタン歌劇場で1989年1月と2001年12月に観た同じデクスター演出のそれぞれ素晴らしかった公演と比べても、「最高」といえる内容だったといえます。2009年9月のミラノ・スカラ座来日公演の《ドン・カルロ》と比べると5割増しくらいによかった、というのが観劇直後の私の印象です。
幕が上がる前に、マイクを持った背広の紳士が舞台袖から登場したときには、これはまずいな、と思いました。本場のMETではこういう場合、出演者の故障のアナウンスがあるからです。ところが、それはMET総裁のピーター・ゲルプ氏(その横で通訳をしたのはわが井上裕佳子MET日本代表)で、来日公演千秋楽前日(《ドン・カルロ》最終日)にあたっての挨拶が述べられたのでした。その中で氏が自信たっぷりに「今日は最高の《ドン・カルロ》をお見せします。」と語ったとおりの公演であったと思います。
池原麻里子氏の近著「メトロ・ポリタン・オペラのすべて」の中でも、ゲルプ総裁の猛烈仕事ぶりが鮮やかに描かれていますが、来日公演の間も氏はつきっきりで陣頭指揮にあたっていたようです。これほどの大きなオペラカンパニーでこんなにジェネラルマネージャーが前面に出てくるのは珍しいことだと思いますが、その彼にとっても、原発問題で難しい判断を迫られ、主役級の大幅な交代などを乗り越えて、こんなに凄い舞台を作り上げてみせることができた、というのはおそらく感無量のことだったに違いありません。そこで観衆の前にひとこと言いに出たくなった、そうした思いがよく感じられた挨拶でした。
指揮:ファビオ・ルイージ
演出:ジョン・デクスター
美術:デヴィット・レッパ
衣裳:レイ・ディフェン
エリザベッタ:マリーナ・ポプラフスカヤ
ドン・カルロ:ヨンフン・リー
ロドリーゴ:ディミートリ・フヴォロストフスキー
エボリ公女:エカテリーナ・グヴァノーヴァ、フィリッポ2世:ルネ・パーペ
大審問官:ステファン・コーツァン
修道士:ジョーダン・ビシュ
テバルド:レイラ・クレア
スカラ来日公演の5割増し、と私が判定した理由の第一は、まず指揮のルイージがダニエレ・ガッティよりもヴェルディのスタイルをきちんと踏まえたしかも熱気にあふれた演奏をしてくれたことです。そのせいか、同じフィリッポを歌ったルネ・パーペも、2009年の時よりも出来がよく、第4幕冒頭のアリアもそれほど違和感なく聴けました。ヴェルディを振るのがそれほど得意とはいえないレヴァインからルイージに指揮者が交代したのは、日本公演にとってはむしろ良かったといえるかもしれません。
ヨナス・・カウフマンの代わりに題名役を歌ったヨンフン・リーも素晴らしかったです。私は、カウフマンはナマで聴いたことがないので比較できませんが、スカラ来日公演のヴァルガスよりはずっと声が輝かしく力強い。NHKホールでも声がビンビンと響いてきます。マンリーコ、アルヴァーロ、ラダメスなどを聴いてみたい本格的なリリコ・スピント。声のタイプは、地声はあそこまでロブストではありませんがフランコ・コレッリに似た響きを持っています。
姿もテノールにありがちなずんぐりむっくりではなくスラリとしていてまさに韓流スターの趣です(素顔の写真はそこまで格好よくはありませんが、舞台メークでかなりカバーできてました。)から、コレッリが得意とした役柄はみんないけると思います。アジアからこんなにいいテノールが出てきたのはよろこばしい限りです。
そして、スカラ来日公演との比較において圧倒的な違いは、なんといってもポーザ侯爵ロドリーゴですね。ディミートリのロドリーゴは2001年のMETで聴いて以来ですが、やはりいい。エットレ・バスティアニーニ没後、最も素晴らしいロドリーゴであると私は思っています。
第2幕の出だしでは、リーのよく響く声に比べると少しくぐもった感じに聞こえるところもありましたが、贔屓の人間からみると、その程よく暗みがかったヴェルベットの光沢の男らしい声が抑制気味に下から2重唱を支えるのが、なんともいえない色気を感じさせるところでもあるのです。
演技についても、彼は、立っているだけでサマになることを自覚しているのか、あまり動かず抑制的です。第2幕のフィリッポ王との丁々発止のやりとりでは、METライブビューイングで放映された今シーズン新演出でロドリーゴを演じていたキーンリーサイドが、いかにも補佐官的でへりくだった態度で王と接していたのに対し、まさに王と対等で一歩もひかない気概を持った男の中の男という伝統的なポーザ侯爵像をそのままに体現した颯爽たる武人ぶりです。
その背筋を伸ばし足を大きく開いて踏みしめた姿は、彼がリサイタルで歌うときのスタイルでもあるので一番声が出しやすい姿勢をとっているだけ、という見方もできないことはありませんが、それがまたサマになるのだから仕方がありません。
第4幕第2場の牢獄で死ぬ場面は、数あるヴェルディのバリトン・アリアの中でも白眉といえる名曲です。このフィリッポ王をして「Oh! Strano sognator!(奇妙な夢想家よ)」と呼ばしめた英雄的な男の、その夢想に殉じる死に様こそが、ヴェルディがバリトンという声種に与えた美学の集大成なんですね。
それだけに、本当にこの名曲のよさを心髄にまで染み入らせてくれる名唱にはなかなか出会えるものではありません。しかしながら、私は幸福なことにMETの公演ではいつも魂を揺さぶられる体験をしています。1989年のベルント・ヴァイクル、そして2001年と今回のフヴォロストフスキーです。
その驚異的な長さをほこるブレスを活用したフレージングのひっぱり具合にはややこれ見よがしなところもありましたが、ディミートリの声は10年の時を経てますます深みを増し、その声自体のもつ悲劇的な陰影の美しさとでも言ったらいいのでしょうか、その魅力ある響きを、音楽そのものの美しさとともに堪能したのでありました。
なお、トリヴィアルな話になりますが、第2幕、サン・ジュスト修道院の礼拝堂にいるドン・カルロのところに、ロドリーゴがやってくる場面。舞台上手から入ってきたロドリーゴは客席側(にあると想定される祭壇)に向かってひざまずき、まず十字を切って祈りを捧げてから、下手のカルロに声をかけます。
2001年のMET公演のときのディミートリは、この十字を切るの途中でとまどい、なんだかうやむやな形でやめてしまいました。ご承知のとおり、カトリックでは十字の横棒は左肩〜右肩の順に触れて切ります。ところが、ロシア正教はその逆で、まず右肩、次に左肩となります。ロシア人のディミートリは、小さいときからロシア正教式が身についているので、舞台のうえでカトリック式をやろうとして一瞬どちらかわからなくなってしまったのではないか、というのがその時見ていて印象に残ったことでした。
しかし、ドン・カルロがいるのに気がついたので止める、という演出の指示だったのかもしれない、と考えることもできたので、これは私にとって永年の謎、今回彼がどうするかをひそかに注目していたのです。結果は……彼はきちんとカトリック式の十字を切ってから下手の方に向かいました。
ポプラフスカヤは今シーズンのMETで新演出のエリザベッタを歌ったほか、話題のウィリー・デッカー演出《ラ・トラヴィアータ》でも主役をつとめるなど、今まさに旬のスター候補生。当初エリザベッタ役を歌う予定だったバルバラ・フリットリが《ボエーム》に回ったために急遽来日することになりました。
名古屋公演から数えるとこのデクスター版の演出も4回目の演技となるので硬いところは見られなかったのですが、第2幕でおつきの女官が王の叱責を受けて解任されたのを慰めるロマンツァは、明らかにフリットリならばもっとしっとりと情感豊かに歌っただろうな、という味も素っ気もないものでした。シンプルな3拍子のカンタービレの場面では、歌唱スタイルがまだ未熟であることを暴露してしまったようです。
しかし、声質としてはフリットリよりも強靭性があって、運命に翻弄されながらも節目節目で毅然とした態度をみせるこの貴婦人役により合ったものだと思わせてくれました。
既にこの公演を聴いた人からは、最終幕の大アリアはすこしスタミナ切れになっていた、という評判を聞いていたのですが、この日はペース配分を心がけるようになったのか、最後まで強めの美しい響きが途切れることがなく、上記のロマンツァ以外は不満のない歌唱だったと思います。2001年のMETでは、ガリーナ・ゴルチャコーワが最終幕でスタミナ切れとなっていたのと比べると立派なものです。
ただし、容姿については、ゴルチャコーワや、今をときめくネトレプコなど、ロシア出身の先輩ソプラノたちに比べると、かなり苦しいものがあります(アメリカでは、けっこう美人として扱われているという話もあります)。
エーボリの役も、予定されていたオリガ・ボロディナが、喉の不調のためにキャンセルとなり、グバノヴァとなりました。
2009年のスカラ来日公演のときも、ディンティーノがキャンセルとなったため急遽来日してアムネリスを歌いました。このようにピンチヒッターで一流歌手の穴を埋める形で世界的なキャリアを形成しつつある有望な若手ということがいえます。力強い声ですが、低音のドスが利かないので、アムネリスはイマイチでしたが、このエーボリ役では悪くありませんでした。
MET今シーズン新演出版でエーボリを歌った同郷のアンナ・スミルノワよりははるかにましです。ただし、2009年のスカラ公演でこの役を歌ったドローラ・ザジックはさらにこの上を行く迫力満点の歌唱だったので、この部分だけはスカラの方が上だったと言わざるを得ません。
さて、2009年のスカラでも、今シーズンのMET新演出でも、そして今回の来日公演デクスター演出でも、なぜか、バス歌手にとって最高の大役フィリッポは、常にルネ・パーペが占めています。
確かに現役最高のバス歌手のひとりであることに異論はないのですが、このフィリッポに関していえば、もっとヴェルディの様式感を身につけた、ロベルト・スカンディウッツィとかフェルッチョ・フルラネットらのイタリア人歌手がいるにも拘わらず、なぜ2大ハウスがマルケ王やフンディングをも得意とするパーペに常にこの役を与え続けるのか、疑問なしとしません。
ただし、前述したとおり、今回パーペが歌う<彼女は私を愛したことがない〜ひとり寂しく眠ろう>のアリアは、2009年の時ほどの違和感はありませんでした。新演出でネゼ・セガン、そして今回はルイージという様式感のしっかりした指揮者の下で歌いこむうちに、ヴェルディのスタイルがだいぶ身についてきた、といえるのかもしれません。
ただし、このアリアのあとの大審問官とのバス対決の場面では、若手のコーツァンに馬力負けしていたような気がします。
そのコーツァン。スロヴァキア出身で、2009~10年のシーズンにMETデビューしたばかりの若手。本格的なバッソ・プロフォンドですが、高音もなめらかに出るので、将来はフィリッポを歌えるようになることを期待できそうな逸材だと思いました。
ジョン・デクスターの演出を観て、あらためて、オーソドックスな演出の良さをかみしめました。METがニコラス・ハイトナー演出、ボブ・クロウリー美術の新演出版プロダクションではなく、この旧版を持ってきてくれて感謝したいくらいです。
1979年から使われている旧版は「古色蒼然」というイメージを持っていましたが、今回観てみると、デヴィッド・レッパの美術は十分に美しく、レイ・ディフェンの豪華な衣裳とあいまって、いかにもスペクタクル時代劇らしい華やかさもあります。
スカラ座のブラウンシュヴァイクによる妙に説明過剰でしかもドラマを矮小化してしまう、観客を馬鹿にしたような演出と比べると、実に堂々と王道を行くよい演出であったと思います。30年の歳月を経た道具類はあちこちがほころび、傷んでいることでしょう。この日本公演を最後にして廃却されることになるものと思われます。その最後の公演の舞台に向かい思わず「ご苦労さまでした」と手を合わせました。
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