バイエルン国立歌劇場2011年日本公演が9月23日に神奈川県民ホールでの《ロベルト・デヴェリュー》で開幕、怒涛のブラヴォーを浴びて初日を終えました、と主催者NBSのホームページに誇らしげに掲載されています。私もその「怒涛」の一翼を担ってきました。
マチネの県民ホール3階ホワイエから正面に見渡せる大桟橋には、ここを母港とする「飛鳥Ⅱ」が白い巨体を横たえ、少し蒸し暑さの残る曇り空の下、赤い二本線があざやかな煙突から出港前ののろしのように煙をあげていました。
エディタ・グルベローヴァのエリザベス1世は、威厳と優美を兼ね備えた豪華客船のような圧倒的な存在感で、現代風衣裳による置き換え演出で矮小化されてしまった舞台の上でさえも、プリマドンナ・オペラの絢爛たる魅力を満喫させてくれた、といえましょう。
1946年12月23日生まれ、といいますから、既に64歳。1980年のウィーン来日公演以来、30年間にわたり彼女を聴いてきましたが、その衰えを知らぬ声の張り、独特の輝かしさには、あらためて度肝を抜かれた次第です。往年の驚異的なコロラトゥーラ技巧を前面に出す歌い方から、様式感を踏まえながらもより心理的な襞を細やかに表現することを重視する姿勢に変わってきてはいますが、やはり現役最高の「ベル・カントの女王」であることをみせつけてくれました。
共演したメッソ・ソプラノのソニア・ガナッシや、先週《清教徒》で聴いたばかりのデジレ・ランカトーレなども、十分に美しい声の響きを聴かせてくれたのですが、グルベローヴァのナマの声を聴く喜び、というのはまさに「次元が違う」という感じがするのです。その歌唱スタイルはイタリア的でない、と評する人もいますが、高音においてアーチをかけるように声を増幅させて広い会場を声で満たし、あるいは糸をひくように細く絞って伸ばす発声技術はまさにメッサ・ディ・ヴォーチェそのものであると思います。
近頃はやりの主役級歌手の来日キャンセルはこの公演も例外ではなく、エセックス伯ロベルト・デヴェリュー役のテノールはホセ・ブロスからアレクセイ・ドルゴフへ、ノッティンガム公爵役のバリトンはパオロ・ガヴァネッリからデヴィッド・チェッコーニに変更になりました。しかしながら、テノール役が題名となっているこのオペラですが、実質的な主役はエリザベス1世であり、ドニゼッティの「女王3部作」にライフワークとして取り組んでいるグルベローヴァが不動であれば公演の質にはまったく問題がなかったといえましょう。
「女王3部作」(他の2作は《アンナ・ボレーナ》と《マリア・ストゥアルダ》)のヒロインは本来、マリア・カラスのようなソプラノ・ドランマーティコ・ダジリタのために書かれているといわれ、グルベローヴァの声は軽すぎると、従来私は思っていましたが、今回ナマ演奏を聞いてみて、必ずしもそうではない、と思えるようになってきました。これは、たとえば本来オテッロをやるドラマティックな声ではないドミンゴがすぐれたオテッロを造型してみせたのと同じで、独自の境地を芸の力で切り開いてみせた、といえるのです。
ロシア出身の若手ドルゴフは、6月のMET日本公演《ランメルモールのルチア》に引き続いてのピンチヒッターとしての来日。同じドニゼッティですが、上演機会が少なく演出も独特のこの作品を非常になめらかに自分のものとして歌唱、演技していたと思います。典型的なリリコの美声で、舞台姿もよく、今回こうして連続して主要オペラハウスの窮地を救う活躍をしたことから、今後も世界的なキャリアを積んでゆく道は保証されたのではないでしょうか。今回と同じクリストフ・ロイ演出によるバイエルン歌劇場2005年の《ロベルト・デヴェリュー》公演がDVDになっていますが、そこでグルベローヴァの相手役としてロベルトを歌っていたのが、今回ボローニャ歌劇場日本公演《エルナーニ》で題名役を歌ったロベルト・アロニカでした。そのアロニカよりもドルゴフのほうが、女王の若い恋人役として、そして特に今回の演出では不実な優男の性格を強調していたので、よく合っていたように思います。
そのロベルトの友人であり、ロベルトが思いを寄せるサラの夫でもあるノッティンガム公爵役を歌ったチェッコーニは、初めて聴くバリトンですが、中音域に厚みのあるなかなか立派な声の持ち主であり、少なくともパオロ・ガヴァネッリの代役として何の不足感もなく、先日ボローニャ公演《清教徒》でリッカルドを歌ったルカ・サルシより、今後を期待できる歌手ではないか、と思いました。
ノッティンガム公爵夫人サラは、ソニア・ガナッシ。新国立の《セヴィリアの理髪師》でロジーナを歌うのを聴いたこともありますが、メッゾとしては明るく軽い声質で、こうしたベル・カントの役柄、《ノルマ》のアダルジーザや、《アンナ・ボレーナ》のジョヴァンナのように、ソプラノとメッゾ・ソプラノが未分化の時代のヒロインのライバル役、には向いているタイプといえるかもしれません。手堅い歌唱であったといえますが、ライバルにしては、女王陛下エディタの圧倒的な存在感の前で、ちょっと影が薄い感じがしました。ただし、DVDで同役を歌っているジーン・ピランドよりは歌唱・演技とも上だったと思います。
グルベローヴァの主演するオペラを永年指揮してきたフリードリヒ・ハイダーは、昔は、それほどベル・カントが得意には思われず、彼女の引き立て役にすぎない感じがしたものですが、今回は堂々たるマエストロぶりでした。自身はオーストリア生まれで、ドイツのオーケストラと合唱を指揮して、しかも視覚的には現代イギリスが舞台であるかのような演出でありながら、こてこてのイタリア・オペラらしい音楽作りに成功していた、と思います。私生活でエディタと離れ、対等な芸術家同士としての協働をする立場となったことで一皮剥けたのかもしれません。ふたりがどういう感情を乗り越えて今の関係を築いたのかはわかりませんが、プロフェッショナルとしての敬意と信頼にもとづく素晴らしいパートナーぶりであったと思います。
演出クリストフ・ロイ、美術・衣裳ヘルベルト・ムラウアーによるプロダクションは、ドイツの歌劇場でよく行われる時代読み替えを行っています。DVDでこの演出を初めてみたときには、この種の演出に覚える違和感はあまりないと思いました。時代の置き換えにより、4人の主人公の間の愛憎関係が現代の聴衆にとっても理解しやすい形で提示されており、決して、思いつきの奇抜さだけを狙った演出ではなく、なかなかよく考えられていると思ったからです。
もともと、このオペラは、歴史上のエリザベス1世の人物像や政治ドラマを描くのが目的ではなく、孤独な権力者とそれをとりまく男女の緊張感あふれる愛の葛藤のドラマですから、時代設定そのものは「可変」と考えることはおそらく誤りではないでしょう。エリザベス朝時代の宮廷衣装を着た貴族たちよりも、むしろ現代の政治家(実業家?)や秘書のような姿をしているほうが、現代の聴衆に、そうした男女間の緊張関係を生ナマしく感じとり、作曲者の意図や劇の本質を理解してもらうためにはむしろふさわしい、という発想は、誤りではないようにも思えます。もともと台本では題名役のロベルトの性格がはっきりしません。自分の愛のためには、危険も顧みない勇敢で潔い人物のようにもみえるが、一方ではノッティンガム公爵の友情を裏切り、恋人サラまでも危険にさらすという、身勝手で思慮の浅い人物であるともいえます。
そしてなにより、女王の側からみれば、不実で薄情な男ということになるでしょう。タブロイド紙「サン」を小道具として使ってみせたり、ロベルトだけがノーネクタイでポケットに手を突っ込み絶えず不敵なうす笑いを浮かべさせたりすることにより、彼がゴシップの対象となるスキャンダラスな人物であるようにみせるこの演出は、ある意味、この女王から視点をクローズアップすることにより、このドラマの主人公が女王であることを明確化してみせた、ということなのでしょう。
しかしながら、今回、あらためてナマでこの舞台を観てみると、グルベローヴァの堂々たる女王ぶりや、権力者の孤独と苦悩の表現にふさわしいのは、やはり、チューダー朝の豪華な宮廷衣裳と後期ゴシックの重々しい建築物であったような気もするのでした。
神奈川県民ホールの3階席は舞台がとても見やすいうえ、3月にフィレンツェの《トスカ》をここで観たときにはあったはずのオケピットの上の巨大な反響版が今回ははずされていたため音響も非常によく、C席(\33,000)でも十分楽しめました。冒頭にご紹介したとおり、怒涛のブラーヴォをグルベローヴァに浴びせ倒してホワイエに出てみると、暗くなりはじめた大桟橋からはすでに飛鳥Ⅱの白い巨体は消えており、山下公園に繋留されているそれよりもひと回りもふた回りも小さい氷川丸にイルミネーションライトが灯っていました。