久しぶりに新国立劇場のオペラを観てきました。最近この劇場の番組は、イタリア・オペラ好きには魅力的なものが少なくなってしまったからですが、今回はまずまずでした。4人の主役にヴェルディ作品を歌える声の持ち主をそろえていたからです。とりあえず立派な声を聴かせてもらえば満足できるイタリア・オペラのファンのひとりとしては、その意味でまずまず、というわけです。
レオノーラ:タマール・イヴェーリ
マンリーコ:ヴァルテル・フラッカーロ
ルーナ伯爵:ヴィットリオ・ヴィッテッリ
アズチェーナ:アンドレア・ウルブリッヒ
フェルランド:妻屋秀和
イネス:小野和歌子
ルイス:鈴木准
死の象徴(俳優):古賀豊
子役:池袋遥輝
指揮:ピエトロ・リッツォ
演出:ウルリッヒ・ペータース
美術・衣裳:クリスティアン・フローレン
しかしながら、《イル・トロヴァトーレ》は最も好きなオペラのひとつであり、この10年間でこの作品のナマ公演を観るのが今回10回目となる私にとっては、辛口の評価にならざるを得ないところがあります。
しかしまず、良かったところから書いていきましょう。
声の饗宴を聴かせてくれたソリストたちの中でも特によかったのが題名役のテノール、フラッカーロ。音響のよい新国立という有利な点はあるものの、声は響き過ぎるほどよく出ており、力強さにおいては、何の不足感もなしでした。過去数年間にこの役を聴いたアラーニャやアルヴァレスに比べるとホンモノのスピントという感じがします。
第3幕フィナーレの<Di quella pira...(あの火刑台の恐ろしき炎…)>の締めくくり、俗に言う「テノール殺し」のハイCもくぐもり気味ではあったものの立派に歌いきりました。
ただし、その前のカヴァティーナ<Ah sì, ben mio,…É(ああそうだ、愛しいひとよ…É)>の部分まで甘さのかけらもない剛直な歌い方で通してしまったのは、一本調子にすぎていただけません。ここは、死をも辞せずという強い決意を歌いながらも、新婚の妻へのやさしい思いに溢れていなければならないはずです。
グルジア出身のイヴェーリは、目元のパッチリしたカワイイ系の美人で、それにあった素直な響きのよい美声の持ち主。今までに3回聴いたことがありますが、全て《オテッロ》のデズデーモナ役でした。そのイメージが強いので、このレオノーラ役には軽すぎるのではないか、と思っていたのですが、少なくとも、新国立では十分な強さを感じることができました。
とくに第4幕冒頭のアリア、男声合唱の<ミゼレレ>との掛け合いの部分は意外にも低音がきちんと響いていて驚かされました。しかしながら、肝心の前半<DÕamor sullÕalli rosee…É(恋は薔薇色の翼に乗って)>については、目立つ程ではないものの、フレーズが切れがちで、流れるようなレガートの長いメロディーラインが維持されておらず、あの悲しみを絞り出すような美しいカンタービレが十分に表現されていなかったような気がします。
もちろん、これはマリア・・カラスの名唱などのレベルと比べてということであって、悪くない出来ではあったのですが。今、これが一番うまいのはソンドラ・ラドワノスキでしょうが、彼女の場合は<ミゼレレ>の部分の低音が響きません。この場面の歌唱を聴くたびに、カラスの偉大さをあらためて噛み締める結果となってしまいます。
この作品のキーロール、最も複雑な性格を持つ人物であるアズチェーナを歌ったウルブリッヒはハンバリー出身で、88年に地元でデビューしたそうですから、中堅といっていいキャリアの持ち主。この役を得意としていてヴェローナでも歌っているそうですが、私は初めて聴きました。
確かに立派な声の持ち主で、不足感は感じません。第2幕冒頭の聴かせどころ<Stride la Vampa!(炎は叫び)>は、楽譜どおりにトリルを効かせて技巧的に戦慄を表現するのか、声の威力で押すのか、どっちつかずの歌い方でなんとなく終わってしまった感がありましたが、だんだんと調子をあげて、後半は凄みも感じるようになっていたと思います。
バリトンのヴィッテッリも、声自体はなかなか立派で、悪くはありません。敵役としての暗い情念のほとばしりのようなものも表現できていたと思います。しかしながら、これは指揮者にも責任があると思うのですが、第2幕第2場の<Il balen del suo sorriso,…É(彼女の微笑のきらめきは…É)>はテンポがゆっくりすぎて流れを欠き、この曲がもつ抑制された男の悲しみが持つ美しさというものが十分に表現されていなかったと思います。
フェランドの妻屋秀和はなかなかの好演でした。この役で聴いた日本人(ペン・カンリャンも含む)バスの中で一番立派だったと思います。彼のこの健闘ぶりをみると、国立劇場なのですから、主役4人もすべて外タレで固めるのではなく、日本人歌手も入れてほしかった、と思います。特にソプラノとバリトンは、日本人でも置き換えがきいたのではなかったか、そのためにこの響きのよい中規模サイズの劇場を作ったのではなかったのか、と思うのです。
イタリアの若手指揮者、ピエトロ・リッツォには、残念ながら、リッカルド・フリッツァやマルコ・アルミリアートほどの才能のきらめきは感じられませんでした。
ヴェルディの中期までに多いブン・チャッ・チャッ(イタリア風にいうとズン・パッ・パッ)の音型を、なんだかあまりにも素直というか愚直に奏でてしまうので、この単純な音型にこめられたエネルギーや独特の熱気というものが十分に立ち上がってきません。これだけのキャストであればもっと興奮できる作品であるはずなのですが。
もうひとつ、この作品のもつストレートな力強さを味わうのを阻害していたのが、ウルリッヒ・ペーターズの演出でした。
たしかに、《トロヴァトーレ》は音楽は超一流なのに台本がダメという定評があり、各幕の間の物語の展開がわかりにくい、といった弱点がよく指摘されています。演出家として何か手をいれたくなる気持ちはわからないでもありません。
しかし、だからといって、「死の象徴」と称するマイムの役者を登場させて狂言回しのようなことをさせるのは、「音楽鑑賞の邪魔」以外のなにものでもありません。
プログラムに寄せた文の中でペーターズは「本作につける私の副題、それは『感情の噴出』です。(中略)このオペラで最も面白いのは筋立てでなく、その場その場で人間が示す『強烈な心の動きの連鎖』なのです。そして、その面白さにヴェルディが触発されたからこそ、音楽の完成度も高まりました。私が特に感銘を受けるのは重唱やコンチェルタートです」と述べています。ここまでこの作品の特質をよく理解していながら、なぜ、その素晴らしいコンチェルタートが鳴っているときに、「死の象徴」が意味ありげな動きをして観客の注意をそらせるような演出をするのでしょうか? 自家撞着に陥っているとしか思えません。
また、彼が「ご注目ください」と自慢げに書いている第3幕カステロール城内でのマンリーコとレオノーラの愛の場面では、背景に満開の桜の花らしきものが登場し、桜の花びららしきものが天井から降ってきます。
日本での上演を意識して、潔く散る桜の花に日本的な滅びの美学や「死」を連想させようとしたのかもしれません。しかしながら、背景画の花も降ってくる花びらもピンク色が強すぎてまるで桃の花のように見えてしまい、桜吹雪をよく知る日本人の観客にとっては違和感を禁じえないものになっていました。
メトロポリタン歌劇場で《蝶々夫人》の舞台を作ったアンソニー・ミンゲッラとマイケル・・レヴァインのように歌舞伎の舞台美術をきちんと勉強していれば、こんなおかしなことにはならなかったでしょう。
あのような色使いを許した日本側のスタッフにも問題があるかもしれません。