例年になく春の訪れが遅く、前日の土曜にやっと春一番を思わせる強風が吹き荒れたあとの日曜、マチネの新国立劇場前の池には明るい日差しが照りかえっていました。
地味目のキャストでしたが、シーズン初日の客席にはほとんど空席が見当たりません。数少なくなってしまった本格的なイタリア・オペラの上演に飢えているのは私たちだけではないのかもしれません。
指揮:ジャン・レイサム=ケーニック
演出:マリオ・マルトーネ
美術:マルゲリータ・パッリ
衣裳」ウルスラ・パーツァク
照明:川口雅弘
合唱指揮:三澤洋史
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団
オテッロ:ヴァルテル・フラッカーロ
デズデーモナ:マリア・ルイジア・ボルシ
イアーゴ:ミカエル・ババジャニアン
カッシオ:小原啓楼
エミーリア:清水華澄
ロドヴィーコ:松位浩
ロデリーゴ:内山信吾
モンターノ:久保田真澄
伝令:タン・ジュンボ
新国立の《オテッロ》は、2009年9月にも同じマルトーネ演出・パッリ美術のプロダクションで聴いています。
その時は、指揮者のリッカルド・フリッツァが小粒なソリストをうまく統率してこの作品の持つエネルギーを十分に引き出した、という印象が強かったのですが、今回は、全体のバランスがさらに良くなってハイレベルの演奏が聴けた、という気がします。
まずはイギリス出身の指揮者レイサム=ケーニックの卓抜な指揮が貢献していることは確かですが、前回に引き続き冒頭の嵐のシーンや第3幕のコンチェルタートで爆発的な輝きをみせてくれた東京フィルと新国立劇場合唱団の実力もハイレベルであったのだと思います。
劇場の前では、この合唱団の労組によるビラ配りがされていました。最近フィレンツェの歌劇場でオケがストに突入したためピアノ伴奏によるオペラ上演が行われた、という話を聞きましたが、新国立の場合は、そのような争議のさなかであってもこれだけの演奏をみせてくれたわけです。このようなプロ集団は大事にしなければならない、と感じました。
題名役のフラッカーロは、ガルージンやクーラほどのロブストな重い声ではなく、かといってドミンゴのように声の輝かしさと知的な演技力で補って余りあるほどの表現力があるわけでもありませんが、過去10年くらいの間に日本で歌った他のオテッロ(レンダル、ヨハンソン、フォービス、グールドら)に比べると満足感の高い演奏であったように思えます。強い個性はないものの、有能な指揮者に引っ張られて、様式感の確かな歌唱をみせた、というところでしょうか。
アルメニア出身のババジャニアンは、ヴェルディ・バリトンに求められる高音の輝かしさ、力強さがないために<悪のクレード>で十分な凄味を感じさせることができないもどかしさもありました。しかしながら、中音域の力と演技力は確かなものがあるので、悪意の蜘蛛の糸を張り巡らせるキーロールとしての役割は十分に果たしていた、と思います。
デズデーモナというと前回の新国立公演にも登場したタマール・イヴェーリのイメージが最近は強かったのですが、今回のボルシは、久しぶりにそのイヴェーリを超えるくらいの存在感をみせてくれました。
この役にふさわしいイノセント・ビューティといったタイプの容姿(プログラムの写真よりも舞台姿の方が美しい)であるものの、声はかなりしっかりとした芯のあるリリコで、第3幕フィナーレのあの分厚いコンチェルタートの中でもしっかりと声が通っていましたし、第4幕の<柳の歌~アヴェ・マリア>は様式感の確かなカンタービレを聴かせてくれました。
前回の新国立公演の感想では、非力なカッシオになにも外タレを呼んでくることはないじゃないか、と書いた覚えがあります。今回はまさにそのとおりとなり、なかなか二枚目の小原啓楼が十分満足できる国産カッシオを演じていました。その他のソリストたちもそれぞれ不満のない出来だったと思います。特にロドヴィーコをやった松位は本格的なバッソ・プロフォンドの声を持っていました。
マルトーネの演出は前回と同じものなので、以下に前回書いた感想を引用します:
全幕をとおしたいわゆる「一杯飾り」の装置で、キプロス島の物語であるにもかかわらずあえてヴェネチア風の建物と水路がしつらえてあり、あたかもヴェネチアの街角を思わせる風景の中で劇は展開します。
舞台上をいくつかに区切る水路には実際に水が張られ、舞台奥にはこれをまたぐアーチ型の橋が2本かけられていて人物の出入りにつかわれます。
舞台中央、水路に囲まれる形でオテッロの居城を象徴する四角い構造物があり、これが回転すると内部に寝室が現れるようになっています。その居室の前の水路は水深がくるぶし程度しかなく、人物がじゃぶじゃぶと足を踏み入れることができるようになっています。ヤーゴの<悪のクレード>、デズデーモナの<柳の歌>、オテッロの<死>という3人の主役のそれぞれの聴かせどころで、その水路に入って足元を濡らしながら歌わせるところが面白い演出でした。
3人の主役がそれぞれの立場でヴェネチアという都市国家と運命的に関わり、その呪縛に足をとられながら生き、あるいは死ぬ、ということを表現したかったのかもしれません。
ヴェルディとボーイトは、ヴェニスを舞台としたシェークスピア原作「オセロー」の第1幕を削り、キプロス島に舞台を限定した4幕仕立てのオペラを作りました。しかしながら、この一見単純に見える姦計と嫉妬の悲劇の背景には、「海の都」ヴェネチアの光と影が色濃く投影しているのだ、というのがこの演出の考え方なのでしょう。視覚的にはヴェネチアに見える場所で、劇が進行していくのです。
ヤーゴはなぜかくもオテッロを憎み陥れようとするのか、知恵も勇気もあるはずのオテッロがなぜかくも易々とその姦計に騙されてしまうのか、デズデーモナはなぜかくも愚かにも自分のおかれた状況を理解しようとしないのか、そこに働く大きな力にヴェネチアという名前を与えてみる、というのは確かにひとつの解釈であるといえましょう。(以上、引用終わり)
今回は、デズデーモナが<柳の歌>で水の中に入らないなど、ところどころ細かい修正がありました。3階席だったので、前回より高い位置から舞台を俯瞰することになり、あらためて気付いたのは、水路とそれを渡る迷路のような通路、中央に置かれた建物などが全て直角と線でできていて、いかにも作りものめいた、まるでコンピュータゲームの世界のように見えることでした。ヤーゴは、オテッロの心の中に嫉妬を芽生えさせ、いかにそれを掻き立てていくのか、というゲームをやっていたのかもしれません。
なお、プログラムの中で演出家マルトーネがこんなことを言っていました。<舞台演出家の私がオペラに挑むにあたり、一番面白く思うのは、コンチェルタートのシーンなのです。芝居畑の人間からみるとコンチェルタートはまたとない「好機」です。我々の日常ではいろいろなことが同時に起きますが、演劇のステージでそれを再現すると誰のセリフも聞こえなくなります。ところがオペラではそれも可能なのですね。たくさんの人々が様々な内容を同時にしゃべっている姿を演出するのは、まさに演出家冥利につきることなのです。その際、ドラマの道筋はきちんと整理しなければなりませんが、コンチェルタートが物語る方向性をお客様に整理して伝えられたと思った時、私は本当にうれしくなるのです。>
《リゴレット》の有名な四重唱を聴いた原作者のビクトル・ユーゴーも、セリフ劇ではなし得ないオペラの表現力に感嘆したといわれています。
ヴェルディという作曲家は、この重唱やコンチェルタートという手法を常に上手に使ってドラマを盛り上げることに長けています。逆にいえば、コンチェルタートはヴェルディ作品を聴く楽しみの大きなポイントのひとつといっていいでしょう。
初期の《ナブッコ》などでは、ソリスト、合唱、オケの織りなす壮大な構造物としての面白さはあるものの、まだ登場人物たちはほぼ同じ歌詞を重層的に歌っているだけであったりするのですが、それが《マクベス》あたりから複雑になってきて、この《オテッロ》と《ファルスタッフ》という最晩年の2作品で名人芸の頂点を極めるような高み達するのです。
これは仮説にすぎませんが、ヴェルディという作曲家は、シェークスピアにインスパイアされてオペラの作劇法を深めていったのではないか、と想像すると興味がつきません。