4月13日、会社の平日休みを使って新国立劇場の「オテロ」に行ってきた。
公演自体の出来はとてもすばらしく、タイトルロール含めて主役の3人の歌唱も満足のいく水準だったが、演出を含めた詳細は別のレポートに譲りたい。
オテロの場合、オケの役割も非常に重要になってくるが、指揮のジャン・レイザム=ケーニックも東京フィルハーモニーも期待以上に素晴らしく、終演後には観客と歌手たちから惜しみない拍手が送られていたのも納得できた。
今回はじめて実演のオテロを聴くにあたり、多少の準備をして臨んだのであるが、ここでは今回の公演を聴いて気づいた点、特にワグネリアンの耳を通して感じた点について少々記述したい。
オテロは、筆者の見方ではシェークスピアとヴェルディ、それに若いころ熱烈なワグネリアンであったボイートの3者の融合によって実現した、ヴェルディの最高傑作である。
そもそもヴェルディのオペラは、台本(リブレット)は歌劇としての見せ場や聞かせどころが満載であるものの、往々にして劇としての構成や深み、緊張感といった意味での一貫性に欠け、「まあ話の筋はいいから素晴らしい歌を堪能して!」ということで納得させられてきた面が強かった。
その点、自らギリシャ悲劇をベースにした演劇理論を追求し、台本、リブレットの起草、作詞から作曲まで全てを自作することで、劇としての一貫性や論理性を確保し(そのため舞台外の出来事に関する説明的な叙事詩部分に時間が割かれて、作品自体が長大になる傾向はあるものの)、ストーリーの破たんや飛躍を回避した「構築物」としてのオペラ(楽劇)を創ったワーグナーと対比される。
音楽的にはヴェルディの傑作であること疑いのない「ドン・カルロ」でも、ストーリー展開はかなり破綻しており、最後に先帝の亡霊(修道士)が現れて主役を連れ去って終わるという「なんでそうなるの??」という結末である。
しかしオテロは違う。シェークスピアの悲劇オセロをベースに、ボイートは余分なシーンや描写を徹底的にそぎ落とし(そもそも原作の第一幕そのものをバッサリとカットした)、オテロの単純直裁、デズデモナの純粋無垢(無知?)に対する、悪の化身ヤーゴの妖計、という簡素化され、鮮明に対比された主役の人物像を設定し、それに最小限だが最大限効果的な劇的シーン(嵐、夜のラヴシーン、殺人など)をちりばめるという、緊張感と一貫性に満ちた構成を提供している。
かつて熱狂的なワグネリアンとしてヴェルディ作品にも批判的であったボイートは、ヴェルディ作品の弱点である台本の劇的要素の弱さを、シェークスピアの悲劇をベースにした登場人物のキャラクターにワーグナー的掘り下げを施し、またアイーダまでのナンバーオペラとしての歌芝居(アリアなどが劇的展開から独立して歌われる歌唱主導型構成)から、劇進行の途中中断なく一貫してドラマが進む、楽劇的構成の台本を提供している。
ヴェルディもそうした楽劇的構成の台本に対して、聞かせどころのアリアや二重唱などを独立したナンバーとして作曲せず、各幕を一気通貫で演奏させるように音楽を切れ目なく連続的に創っている。
ヴェルディ自身、この作品のタイトルを最後まで「ヤーゴ」とすることで迷ったというが、確かに劇としての本作の主役は悪の権化ヤーゴであろう。このヤーゴのキャラクター(と歌)が強烈であるからこそ、オテロの悲劇は深まるのである。
筆者はこのヤーゴの存在感には、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」における主神ウォータンと小人アルベリヒに通じるものがあると考える。指輪ではアルベリヒは専ら悪役であり、世界破滅をもたらす呪いの主であり、愛を否定し妖計をめぐらず強烈な個性を持つアルベリヒが、悪の化身ヤーゴと共通するのは当然だ。
一方、指輪の物語の中で愛に苦しみ、善と義を司るのが主神ウォータンであるが、実はウォータンとアルベリヒは同じ人間性=「権力の化身」の陰陽両面を表しているとも考えられている。
詳細は省くが、そもそも両人を象徴するライトモティーフ、つまりウォータン=ワルハラの動機とアルベリヒ=ニーベルングの動機は、ほぼ同じ回転音型を長調と短調で対比したものであり、ワーグナーは意図して両者の近親性を暗示している。
そして「ワルキューレ」のタイトルロールであるブリュンヒルデと、「ジークフリート」の主役ジークフリートのカップルは、結局このウォータンとアルベリヒの仕掛けた権力抗争と呪いや妖計の中、悲劇的な死を迎えるのである。
主神ウォータンは「指輪」の要をなす重要な役だが、一見善玉に見えるウォータンの権力欲がもたらした禍は、息子(ジークムント)、娘(ジークリンデ、ブリュンヒルデ)、孫(ジークフリート)という彼の愛する血族をことごとく死なせてしまうという悲劇をもたらす。
ヤーゴがオテロのドラマの要であるのと同様に、ウィータンとアルベリヒという2人の人格に分解されたバリトンが指輪のドラマの要になっているのである。
ちなみに指輪のフィナーレでブリュンヒルデは、アルベリヒの息子で父の悪を引き継ぐハーゲンの妖計によって重婚した夫(であり甥でもある)ジークフリートを、嫉妬と復讐心から殺させてしまうという、オテロと相似的な設定になっている。ワーグナーが神話の世界に象徴化された人間性のドラマを壮大な遠心力で描いたのに対し、ヴェルディ=ボイートはオテロで、あくまで現実の人間ドラマにこだわったうえで、余計なものを削ぎ落として、先鋭化された悲劇を、ヤーゴという強烈な人格を表すバリトンを通じた求心力で描いたといってもよいかもしれない。
ところで実のところ筆者には、オテロにはヴェルディにとってワーグナーへのオマージュとしての意味が込められていたのではないかと思われてならない。
オテロは1886年、ヴェルディ73歳の年に完成している。前作のアイーダ完成から15年もの空白があり、その間ヴェルディはレクイエム以外に作曲に手を染めていない。
奇しくもヴェルディと同じ1813年に生まれたワーグナーは、すでに3年前の1883年にヴェネチアで客死している。つまりオテロは、ヴェルディの生涯のライヴァルであり、常に世間から比較されてきたワーグナーが他界してから後に書かれた最初のオペラなのである。
ヴェルディはワーグナー死去の報を受け、ジュリオ・リコルディに「悲しい、悲しい、悲しい。ワーグナーが死んだ。昨日電報を読んで茫然自失した。偉大な人物が亡くなったのだ。芸術の歴史に巨大な足跡を残す人だ。」と手紙を書いたという。
さらにヴェルディの評伝によれば、サンターガタのヴェルディ邸には、「ローエングリン」「ワルキューレ」「パルシファル」「トリスタン」「マイスタージンガー」のスコアが、彼の書き込みとともに残されているという。
ヴェルディは「ドン・カルロ」作曲中の1865年に初めてワーグナーのタンホイザー序曲を聴いて「ワーグナーは狂っている!!」と評したという。しかしその後もワーグナーはヴェルディの意識の中にはっきり存在し、ローエングリンが1871年にボローニャでイタリア初演された際にも、お忍びで聴きに行っているという(丁度アイーダ作曲中の時期である)。
劇音楽作曲家の本能からか、ヴェルディもすでに以前から、特定の登場人物や感情にモチーフを付与するというワーグナー的なライトモチーフの手法は時として用いてきた。
アイーダでは、前奏曲から主役アイーダと神官を表すモチーフを対立的に扱うなど、明らかにワーグナー楽劇の前奏曲の影響を示している。
ヴェルディ自身、「イタリアは歌の国、ドイツは器楽の国」と評し、ドイツに伝統を根ざす室内楽のような器楽曲には手を出そうとしなかったというが、一方でオーケストラに歌手以上に多くのものを語らせるワーグナーのオーケストレーション手法の優れた点については、意図的に自作に取り入れいたに相違ない。
そのヴェルディがワーグナーの死後、初めて書いたオペラがオテロである。しかも前作アイーダ完成から15年、ヴェルディはサンターガタの田舎に引きこもり、悠々自適の生活を送っている。そこにはワーグナーの代表作のスコアが持ち込まれ、おそらく徹底的に研究されたにちがいない。実際ワグネリアンの筆者の耳には、オテロの随所にワーグナーの影響を聞き取ることができる。
もちろんオテロは冒頭からヴェルディ節が全開であり、バスドラム、シンバルを伴う金管の咆哮、トランペットの輝かしい上昇音、ピッコロの閃光を思わせる上昇音など、一聴してヴェルディとわかる劇的な音楽である。
このヴェルディ節は、美しい歌の節回し、劇的なヤーゴのクレド、二重唱、四重唱など、全4幕をとおしてオテロの基調となっていることは間違いない。
しかしオテロの中でも最も美しくロマンティックな場面、第一幕後半の愛の場面と、第四幕後半の死の場面は、従来のヴェルディの音楽とは明らかに異なる作風が紛れ込んできている。
特に両場面の導入部には、比較的長いオーケストラのみの間奏が挿入されている。第一幕の愛二重唱の導入は独奏チェロの美しい上昇音型から始まり、頂点の変ホ音に到達するや、付点を伴う美しい音型を反復、転調しながら緩やかに下降してくる。
このパッセージはワルキューレ第一幕で、ジークリンデが差し出す水を飲みながらジークムントが「次第に魅せられていく(ト書き)」シーンで、独奏チェロが切々と奏でるジークムントの動機の上昇音型と、それに続く愛の逃亡の動機の下降反復に酷似している。
オテロの場合、下降しきったところから二重唱が始まるのであるが、筆者にはそのまま半音階のウェルズングの愛の動機が続くのではないかと錯覚させられるほどである。
その後二重唱が展開していく中で、デズデモナの歌が転調を繰り返しながら上昇し「あなたはそれを覚えていらっしゃいますか?」で頂点に達するところで、上昇するハープの分散和音を動きを止めた弦楽の和音が支える部分(この場面の最後にも再現される)は、ワーグナーというよりもブルックナーの交響曲8番第三楽章アダージョの頂点に出てくる響きと酷似している。極めてドイツ的、室内楽的なオーケストレーションである。
さらに「あなたは私の不幸の故に私を愛した・・」あたりからは、ヴェルディには珍しく弦楽の刻み音ではなく、高音弦のトレモロが歌唱を支えるようになる。この辺のオーケストレーションはローエングリン、あるいはトリスタンの愛の死の弦楽伴奏を想起させるものである。
その後美しい二重唱は転調や臨時符号を多用しながらトリスタンの第二幕、夜の愛の二重唱を彷彿とさせるクロマティックな展開を見せたのち(むろんヴェルディはワーグナーほど半音階、不協和音を多用しておらず、歌謡性の高い旋律が繰り広げられるのだが)、有名な口づけの動機が提示される。
このオーボエの半音進行を中心とした口づけのモチーフの提示の仕方は、誰の耳にもワーグナーのライトモチーフの典型的な書法と聞こえるだろう。明確で意味ありげな旋律線はオーボエと弦楽が奏で、歌は「口づけを」というセリフの音型を重ねているにすぎない。
オーケストラが主で歌が従という、従来のヴェルディにはあり得なかった構図なのであるが、ヴェルディはワーグナー流の手法をものにし、恍惚とした情景を見事に描き出している。
トリスタン第二幕の夜の二重唱に挿入されるブランゲーネの「警告」の歌が、ほぼ同音を引き延ばしてただセリフをうたっているだけなのに、それを支えるオーケストラの豊潤で恍惚とした響きが、すべてを包み込んでいくシーンの手法である。
同様のワーグナーへのオマージュは第四幕、オテロがデズデモナの寝室に入っていくシーンでも繰り返されている(ちなみに第四幕冒頭でイングリッシュホルンのソロが奏でる「柳の歌」の物悲しげな旋律は、トリスタン第三幕前奏曲の後幕が開いた直後の羊飼いの物悲しげな笛(同じイングリッシュホルンのソロ!)とよく似ている)。
デズデモナのアヴェマリアの後、今度は珍しいことにコントラバスのみのソロ合奏で不安げな上昇音型が繰り返されるが、この引き延ばされたホ長調EGisHCis(ミソ#シド# 移動度でよむとドミソラ)の音型は、パルシファル前奏曲冒頭の愛餐の動機を思い起こさせるものである。
あるいはこれほど長くコントラバスのソロ合奏に意味ありげな旋律を奏でさせた例は、ベートーヴェンの第九交響曲4楽章以来なかったかもしれない(ちなみに第九はバイロイト祝祭劇場こけら落としでワーグナー自身の指揮で演奏され、その後もバイロイトで唯一ワーグナー作品以外で演奏が許されている曲である)。
その後この間奏はヴェルディのレクイエムを想起させるバスドラムのピアニシモによる連打の部分を経て、一旦盛り上がりを見せ、再び静まった後、初めのベースの上昇旋律が、今度は弦楽の高音トレモロにのせてイ短調、ACEFラドミファの上昇音型に変形してイングリッシュホルンとファゴットによって印象的に奏でられる(ちなみにパルシファル前奏曲でも冒頭、変イ長調主和音の上昇分散音で提示された愛餐の動機が、2度目に反復される際、緊張をはらんだハ短調に変化して提示される)。
筆者の耳にはこの部分はどうしてもパルシファルに聞こえてしまう。というか、正直この部分があまりにもワーグナー的に聴こえたことため、あらためてオテロとワーグナーの関係を調べてみるきっかけとなったのである。
この印象的な緊張をはらんだイ短調の短い上昇モチーフは、2回繰り返されることで聴く者の耳に焼き付けられるが、続いて奏でられる美しい口づけのモチーフとセットで、幕切れのオテロの自害シーンで再び奏でられ、聞き手に強いインパクトをもたらすことになる。
これは典型的なライトモティーフの手法である。悲劇としての歌劇オテロの要を押さえている音楽モチーフがこの2つの動機と言ってもよいだろう。
それではこのイ短調上昇音型のモチーフは何をあらわしているのだろうか? 口づけの動機が愛をあらわすモチーフであることは1幕ラブシーンでの使われ方からも明らかだが、この不吉で悲劇的な響きを持った上昇モチーフは、死なねばならないデズデモナとオテロの運命を象徴しているのか? あるいは現世において、あまりに単純に、人間関係の機微に立ち入ることなく生きてきたために、ヤーゴの妖計に容易にはまって死なねばならなくなった2人が、結局死を通して真の愛に結ばれることを暗示しているのかもしれない。だからこそこの動機は、後ろに口づけのモチーフを伴うのではないか? そうであるとするとこれはヴェルディの「愛の死」の動機?
そう考えて思い直してみると、口づけの動機は音感的、構造的にトリスタンの「愛の死」の動機に近似しており、また口づけの動機の後半で引き延ばされた半音階の下降和音は、トリスタンの夢の和音(ヴェーゼンドンクの歌曲集の「夢」で執拗に繰り返される和音~ここでワーグナーは現世で決して満たされることのない不倫関係の愛のもどかしさを描いている)を想起させるものである。
既述の通り、前半のイングリッシュホルンによるイ短調上昇音型は、パルシファルの愛餐の動機の引用とも考えられる。この動機が、パルシファルで使われた時のように、キリストの自己犠牲による罪深き人類の救済を象徴しているとするならば、オテロとデズデモナは、夫婦でありながら結局お互いを真に理解しあえず、嫉妬に狂ったオテロがデズデモナを殺害したのち、自害するという悲劇=神の前の罪を犯すことになるのだが、それがこの愛餐の動機によって、神の恩寵の前で許されることが暗示され、天国で永遠の愛に結ばれる(口づけの動機=愛死の動機)・・ということを表しているのではないか。
オテロが、ヴェルディのワーグナーへのオマージュであると筆者が考える所以である。
*本稿の執筆にあたって歴史的事実などについては荒井秀直「ヴェルディとワーグナー」(東京書籍)