指揮:エヴェリーノ・ピド
演出:エリック・ジェノヴェーゼ
美術:ジャック・ガーベル
衣裳:ルイザ・スピナテッリ
照明:ベルトラン・クールデル
アンナ・ボレーナ:エディタ・グルベローヴァ
ジョヴァンナ・シーモア:ソニア・ガナッシ
エンリーコ8世:ルカ・ピサローニ
リッカルド・パーシー卿:シャルヴァ・ムケリア
ロシュフォール卿:ダン・ポール・ドゥミトレスク
スメトン:エリザベス・クールマン
ハーヴェイ:カルロス・オスナ
チケットが高額な有名オペラハウスの来日公演は、もともと観客の年齢層が高めであるのが普通ではあるのですが、それにしてもこの日の東京文化会館は、高齢者の割合が特に高かったように思われます。杖をついても足元のおぼつかない方々が不自由そうに階段を上り下りする姿が目立ち、改めてこの劇場には客席用のエレベーターがないことが気になりました。
この日は、エディタ・グルベローヴァ最後の来日公演となる《アンナ・ボレーナ》の初日。私ども夫婦が初めて彼女の声に接したのもここ、東京文化会館でのウィーン国立歌劇場公演。1980年10月のことでした。《後宮からの逃走》でコンスタンツェを歌う彼女の声に、度胆を抜かれたことをよく覚えています。
完璧なまでのアジリタ技巧だけでなく、高音域で自由自在にクレシェンド・デクレシェンドする声が、どこまでも伸びやかに、華やかに響きわたり、広い会場を一杯に満たすその空気の震えのようなものを、膚で実感する時の戦慄的なまでの感動は忘れられません。
あれから32年。「ベルカントの女王」は、数々のオペラ公演、コンサートで来日し続け、私たちにたくさんのすばらしい音楽体験を残してくれました。70年代中ごろからオペラを聴き始めた私にとっては、その人が世界的キャリアを歩み始めた当初から引退するまでを聴きとおした初めての大歌手です。会場に詰めかけたオールド・ファンたちも、それぞれの思いを噛みしめながら、今日の公演を聴いていたことでしょう。
アンナの役は、マリア・カラスやエレナ・スリオティスによる名演の録音が残っており、彼女たちよりずっと声が軽いグルベローヴァにとってはチャレンジングな役柄です。
しかしながら、昨年9月のバイエルン歌劇場来日公演《ロベルト・デヴェリュー》を聴いたときと同じような感想を今回も持ちました。グルベローヴァは、ライフワークとして取り組んでいるドニゼッティ「女王三部作」において、ソプラノ・レッジェロによる女王たち、という独自の境地を確立した、といえるのではないか、と思うのです。
因みに、アンナは日本語では「王妃」であり「女王」ではないのですが、イタリア語では「Regina」という同じ言葉になります。
つまり、ドニゼッティの「女王三部作」、《アンナ・ボレーナ》(1830年初演)、《マリア・ストゥアルダ》(1835年)、《ロベルト・デヴェリュー》(1837年)でソプラノが歌うヒロインはそれぞれ、アンナ(イングランド王ヘンリー8世王妃のアン)、マリア(スコットランド女王のメアリ)、エリザベッタ(イングランド女王のエリザベス)でありますが、彼女たちの称号はすべて、イタリア語ではRegina、英語でいえばQueenというわけです。
日本語で正確に表現するならば「王妃・女王三部作」と言わなければならないわけですが、まあ、そこまで厳密さを求めるお話ではないし、かえってややこしくしてしまいますね。
さて、当日のグルベローヴァの歌唱について、お話しましょう。全二幕を通じて3回ほどあるアリアやアンサンブル・フィナーレの締めくくりで超高音を伸ばすところ。全盛期の彼女なら楽々と引っ張れるところですが、1回目は少し音程がぶらさがり気味、最終幕は大アリアの最後なので少し息が切れ気味になりました。
それでも逃げずに敢然と高音に挑戦するところが立派です。それ以外の部分の声の艶やアジリタの切れはまだまだ並のソプラノとは格が違うところを見せつけるだけの輝きを放っていますが、そうした余力を残した状態で花道を引っ込もうとする彼女の女王としての意地とプライドが、この日の舞台からも気迫となって伝わってきました。
特に圧巻は最終幕フィナーレの20分以上におよぶ大アリアの前半部分<生まれ故郷のあの城へ、私を優しくいざなって...>でした。スローテンポでアジリタの技巧は要りませんが、ベルカントの様式感とレガートの表現力が要求されるカンタービレに満ちた美しい曲です。これを彼女は美しいピアニシモで最後まで歌い切りました。
広い会場の中であれだけ抑えた声で歌うのは歌手にとってとても勇気のいることで、自分の声の響きの直進性とディクション、息を支えつづける呼吸法に余程の自信がなければできないことです。まさに銀色の音の糸がどこまでも細く均一の輝きを保ちながら滑らかに滑るように流れていきました。
この過ぎ去った愛の日々を思い出す美しい歌を聴きながら、彼女の過去の名演の数々を思い出し、私は、あふれてくる涙を抑えることができませんでした。フィレンツェ五月祭の《リゴレット》、演出に対するブーイングで大荒れとなった劇場が、彼女のジルダが静かに歌いだすと水を打ったように静かになったこと。サントリーホールのリサイタルで聴いた《ラクメ》の<鈴の歌>の凄まじい超高音の煌めき、モーツァルトのコンサートアリアの華麗なメリスマが滑らかなレガートの中でありながら音のひと粒ひつ粒がくっきりと浮かびあがる様。《ルチア》や《清教徒》における哀しい狂気の表現、などなど....。
ライバル役のメッゾ・ソプラノは、昨年のバイエルン歌劇場公演《ロベルト・デヴェリュー》の時と同じソニア・ガナッシ。今回も、グルベローヴァとの相性のいい美声と確かなテクニックで、好演していたと思います。
エンリーコを歌ったルカ・ピサローニは、ベネズエラ生まれのイタリア人とのこと。絶対権力を持つ王の威厳をみせるには少し若い感じはありましたが、なめらかで艶のある男性的な声は、まさにバッソ・ブリランテの美声。ベルカント・オペラやモーツァルトで今後も活躍が期待できる若手です。
ロシュフォール卿のドゥミトレスクは深々としたバッソ・プロフォンドの声が立派でした。
指揮者のピドは、これまでの経歴をみてもベルカント・オペラを得意とするようで、非常にオーソドックスで、過不足のない演奏だったと思いますが、コンチェルタート形式のフィナーレの場面では、もう少し煽り立てるような緊張感があってもよいかな、という気もしました。「ヴェルディではないのだから」と言われればそれまでで、好みの問題かもしれませんが。
オーソドックスといえば、演出のジェノヴェーゼも、「ベルカント・オペラは、時代の置き換えなどを行うべきではない」という持論の持ち主のようで、舞台装置はシンプルで象徴的なものにし、衣裳も完全なチューダー朝風ではないものの、奇をてらったところのない、わかりやすい舞台だったと思います。