指揮:ペーター・シュナイダー
演出・美術・衣裳:ジャン=ピエール・ポンネル
フィガロ:アーウィン・シュロット
スザンナ:アニタ・ハルティヒ、アルマヴィーヴァ伯爵:カルロス・アルバレス
伯爵夫人:バルバラ・フリットリ
ケルビーノ:マルガリータ・グリシュコヴァ
マルチェリーナ:ドンナ・エレン
バジリオ:ミヒャエル・ロイダー
バルトロ:イル・ホン
ドン・クルツィオ:ペーター・イェロシュッツ
アントニオ:ハンス・ペーター・カンメラー
バルバリーナ:ヴァレンティーナ・ナフォルニータ
1970~80年代を代表するオペラ演出家のひとり、ジャン=ピエール・ポンネルの舞台を残す歌劇場はもう数少なくなってしまいました。そうした文化財的プロダクションを最高のキャストで観ることができる貴重な機会となったのが今回の公演といえましょう。
《フィガロの結婚》は、ダ・ポンテの台本とモーツァルトの音楽が緊密に構成されているので、同じボーマルシェ「三部作」を原作とするロッシーニの《セヴィリアの理髪師》に比べると、演出における自由度は格段に少ないので、ポンネルの天才的なヒラメキによる驚くようなアイデアが溢れている《セヴィリア》のプロダクションに比べると、やや地味かもしれません。しかしながら、その才知は随所に見ることができます。
たとえば、第2幕、伯爵夫人居室の場の始まりでは、上手の窓から夕暮れの光を差し込ませ、室内にたたずむ憂愁に満ちた夫人の姿を立体的に浮かびあがらせて、冒頭のアリアの心境を美しく絵画的に表現します。
第4幕の庭園の場では、月光に光る木々の葉と陰影の濃度をさまざまに変えて、忙しく出入りする登場人物たちの恋の駆け引きに揺れ動き、翻弄される心境を象徴してみせてくれます。
こうした照明効果も駆使した視覚的演出と、人物の動き、小道具の使い方の面白さなどはさすがです。しかも、装置や道具、衣裳などは非常に正統的で美しいものなので、わかりやすく、安心感がありました。
そして、今回のキャストは、こうした溌剌として機知に富んだドラマにふさわしい演技力と容姿を持った歌手ばかりで、すでに何度も観ていて筋の展開はよくわかっているオペラでありながら、思わず固唾を飲んで観入ってします。歌芝居の楽しさを改めて満喫できました。
一方、音楽の面では、モーツァルトの天才ぶりを改めて堪能することはできたものの、ところどころでアンサンブルがしっくりこなかったり、音量のバランスが悪いなど、多少違和感のある部分もありました。
今回の歌手陣は、国際的なキャリアを持つラテン系歌手と地元や東欧出身のウィーンで育てられたゲルマン・スラブ系歌手の混成部隊になっていることが、その一因かもしれません。もちろん、世界の主要オペラハウスでは、こうしたインターナショナルな編成は当たり前のことではあるのですが、モーツァルトの音楽演奏について確固たるスタイルを持っているウィーンならではのケミストリーが、若干裏目に出ているような印象がありました。
その典型が、バルバラ・フリットリです。声も容姿もまさに伯爵夫人にふさわしい人であり、イタリア・オペラにおいては何をやらせてもうまい実力派のスターですから、本来ならば文句のつけようのない配役です。
特に調子が悪そうということもなく、いつもの美声が出ていましたし、歌詞はイタリア語ですから問題なく、演技も上手です。でも、どこかでしっくりきません。この違和感はどこから来るのか? 脳裏に焼き付いている過去の名演と比較して検証しよう、と思い浮かべてみると、出てくるのは、シュヴァルツコプフとヤノヴィッツのふたりです。
このふたりが得意としたのはモーツァルト以外でいうと、まずは《薔薇の騎士》のマルシャリン(元帥夫人)でしょう。そこで、ああそうか、と思ったのは、コンテッサ(伯爵夫人)とマルシャリン(元帥夫人)は、姉妹のようなキャラクターなのかもしれない、ということでした。
今回のポンネルの演出では、特に、伯爵夫人とケルビーノの関係を非常にきわどいものとして表現しています。ボーマルシェの原作第3部では、実際にふたりは不倫関係に陥ってしまうわけですから、そうしたことを匂わせる演出も「あり」なわけです。
これはもう、まさに《薔薇の騎士》におけるマルシャリンとオクタヴィアンの関係の相似形といえましょう。(リヒャルト・シュトラウスとホフマンスタールは20世紀の《フィガロの結婚》を書こうとしたわけですから、当然といえば当然なのですが。)
話を戻しましょう。フリットリは「何をやってもうまい」と言いましたが、それは、エリザベッタ(ドン・カルロ)やデズデーモナやアリーチェ(ファルスタッフ)でのお話。彼女がマルシャリンをやったという話は聞きません。なんだか、この辺に鍵がありそうです。
エリザベッタもデズデーモナもアリーチェも、夫から不倫疑惑をかけられますが、実際にはやらないわけでして、そこがコンテッサやマルシャリンとは違う?なんて、ことも全く見当違いではないかもしれませんが、私が言いたいのはそういうことではありません。
おそらく、歌唱スタイルの問題なのだろう、と思うのです。それなら、どこが違うのか、と言われると、はっきりは答えられないのですが、どうも、モーツァルトのヒロインは、ビブラートを効かせた豊麗な響きよりは、もっとガラス質の硬くて透明な声で、フレージングもさっぱりめに歌う、ということでしょうか。しかもその美しい響きの中に、ガラスであるがゆえの危うさ、壊れやすさを秘めた情感をともなっている、つまり、不倫しちゃう貴婦人のキャラクターが透けてみえなくてはいけない、というか。そんなことを、ちょと考えてしまいました。
もっとも、グンドラ・ヤノヴィッツの声は、硬質で透明なだけで、そんなに色気はなかったのに、彼女が歌う伯爵夫人のアリアは絶品でした。この謎は、本当のところは、うまく説明できません。
題名役を歌ったウルグアイ出身のアーウィン・シュロットは、《アンナ・ボレーナ》でエンリーコを歌ったピサローニ以上にイケメンで声量豊かなバス・バリトンで、庶民のチャンピオンという役にぴったりです。
こちらは、フリットリほどの違和感はないのですが、それでもやはり、ラテン系のフィガロといえばシェーピやカペッキの録音の記憶がこびりついている私の耳には、歌い回しやディクションにおいてもう少し軽さと洒脱さが欲しいように思えました。
歌手の中で今回一番印象に残ったのは、ケルビーノを歌ったロシア出身のグリシュコヴァです。ちょっとファッスベンダーを彷彿とさせるボーイッシュな美貌で、男の子っぽい仕草も決まっているうえ、芯のある力強い美声が思春期の少年らしさをうまく出していました。
もちろんモーツァルトの音楽が良く書けているということが大きいとは思うのですが、第1幕のアリア<自分が何者で、何をしているのかわからない…>と第2幕のアリア<恋とはどんなものかしら…>は、ともに聴くものに新鮮な感動を与えるものだったと思います。私が今まで聴いた中でも出色のケルビーノであったといえるでしょう。
カルロス・アルバレスは、歌唱、演技ともにさすがですが、伯爵にはもう少し軽いバリトンの方がフィガロとの対比やアンサンブルにおける持ち味が出るような気もします。
スザンナを歌ったハルティヒも、伯爵夫人との対比でいえばもっとスーブレットタイプの明るい声の方が良いのですが、第4幕の<恋人よ、早くここに>のしっとりとした情感をただよわせながら清潔な歌いぶりには好感がもてました。
全体のアンサンブルに多少の綻びがみられたのは、もしかしたら単に、指揮者のシュナイダーがお疲れだったからかもしれません。今回の公演では、本来なら音楽監督のウェルザー=メストが振る予定だった《サロメ》の指揮も、負傷で来日できなくなった彼の代わりにやることになったからです。
見たところかなりのお年で、足をひきずるようにして指揮台にあがる姿はちょっと痛々しい感じでした。