今シーズンのメトロポリタン歌劇場ライヴ・ヴューイングが日本でも始まりました。正式には11月3日からの上映ですが、MET日本代表の井上裕佳子さんにご招待いただき、前日の試写会を観ることができました。
2012~13シーズンの開幕公演(9月24日)でも上演されたネトレプコ主演の《愛の妙薬》です。HD(高画質)上映されたのは10月13日の公演とのこと。
指揮:マウリツィオ・ベニーニ
演出:バートレット・シャー
装置:マイケル・イーガン
衣裳:キャサリン・ズーバー
アディーナ:アンナ・ネトレプコ
ネモリーノ:マシュー・ポレンザーニ
ベルコーレ:マウリシュ・クヴィエチェン
ドゥルカマーラ:アンブロージョ・マエストリ
とにかく、あらためて現在のMETの女王がネトレプコであることを、まずは実感。その存在感は群を抜いています。
体型は完全に危険水域に入りつつありますが、美貌と演技力でカバー。もちまえの暗みがかった美声にはますます色気という脂がのり、聴くだけで快感を呼び起こす魅力があります。今回は特に高音域までムラなく艶と張りがあり、アジリタの切れも良かったので、非常に安定感がありました。喜劇だけに、こうして軽々と歌ってくれることも大事な要素です。他のソリストも皆はまり役だったので、とても楽しめるレベルの高い公演だったと思います。
因みにMETのシーズン開幕公演は特別なガラ公演として上演され、その時代のスター歌手が主演するオペラが上演されます。私がニューヨークに住んでいた1990年代後半には、その役はプラシド・ドミンゴが独占状態でした。たしか99年にはすでに開幕出演回数でエンリコ・カルーソーを抜いて歴代1位になっていたはずです。アンナ・ネトレプコは、昨シーズンの《アンナ・ボレーナ》に続く2年連続の登板。この調子だと、しばらくはネトレプコ時代が続くのかもしれません。
ドニゼッティという人はオペラの世界では、ともすると(アルプスの北の音楽が好きな人は言うに及ばず、ヴェルディ・ファンやロッシーニ・ファンからも)「1.5流」と見做されがちな作曲家です。その作品を2年連続で開幕公演に押し上げたのは、彼女の功績といえるでしょう。
正直言って私自身も、これまで、《愛の妙薬》は軽い作品として少々蔑視していたところがなきにしもあらずですが、この公演を観て、考えを改めました。重量級の芸達者な歌手たちがそろえば、そこそこの作品でも楽しめることは確かですが、それだけではなく、作品としてきわめて上質で完成度の高いものである、ということを改めて気がつかせてくれたのは、バートレット・シャーの演出の力によるところも大きかったと思います。
例によってHD中継では出演者のインタビューがありますが、そこに登場したシャーが、伝統的な解釈の「喜劇」よりも、より主人公たちの恋物語(ロマンス)の側面を強調したかった、と語っていました。そのとおり、少し味つけの濃い演出で、ロッシーニのブッファとは違うロマン的な性向が強調されることにより、ドニゼッティの音楽が持つ個性がよく表現されていたように思います。
そうはいっても、一方では、ベルコーレとドゥルカマーラはあくまでも類型的な人物ということに徹しており、それを実力ある歌手たちがくっきりと演じていましたし、アディーナが歌う弾むような楽しいメロディーはあくまでも喜劇のそれであり、生涯喜劇を苦手としたヴェルディとは違うドニゼッティの器用な才能ときらめきを十分に堪能できる演奏でした。
演出家の一番難しい注文を引き受けたのは、おそらくネモリーノを演じたポレンザーニだったのではないでしょうか。純朴で少し頭が足りない村の若者という伝統的ないわゆるテノール馬鹿が似合うタイプから、もう少し(ほんの少しですが)複雑でヒロイックな青年へと、役の性根を入れ替えなければならないからです。
彼はそうした期待に見事にこたえ、説得力のある役作り、そして歌唱をしていたと思います。声やフレージングも申し分なく、特に有名なアリア<人知れぬ涙>では、過度になり過ぎない程度に巧みな弱声の使い方と歌い回しで、過去の名歌手たちの名演が耳にこびりついている私でも「うまい!」とうならざるを得ない出来だったと思います。
クヴィエチェンは、バリトンらしい非常に張りのある力強い声で、敵役に徹したくっきりとした人物の造型が、これも非常に好感が持てました。容姿もいいので、アディーナに強引に迫るうぬぼれ屋ぶりが非常に説得力があります。
そしてマエストリ。彼のドゥルカマーラも圧巻でした。本来はバリトンなのですが、声が太く、大砲のような音量を誇っているので、バッソ・コミコの役にも合っており、時々やるようです。私も彼のフラ・メリトーネをヴェローナで観たことがあります。そしてその大兵肥満の体型がこの役にぴったり。早口言葉をこなされければらならいブッフォ系のバスは、ともすると音量がない軽量級が多いのですが、声も姿も巨大なマエストリの存在感が、この公演全体を引き締めていたように思えます。
指揮者のベニーニもこれら重量級の歌手たちをうまく統率し、こってり重い赤ワインのようなおいしいオペラ・ブッファにしたてていました。