池原 「指環」が上演されると世界中、観に行くいわゆるRing Nutsと言われるワグネリアンがいますが、女性も結構、目につきますね。角付のヘルメットなどをかぶって、観に来ています。
運営者 コスプレして「スターウォーズ」を観に行くようなもんだな。
武田 ハンス・ザックスというのはヴェルディバリトンに近いキャラクターなんだけどね。
バスバリトンで、何かに耐えるような性格で、自分自身は女性にもてないか、自分から身を引いてしまうか・・・「イル・トロヴァトーレ」のルーナ伯爵のような。
手塚 「マイスタージンガー」を書いたとき、ワーグナーがヴェルディを意識したかどうかは、僕は知らないけれど、「マイスタージンガー」がワーグナーの作品の中では特異点であることは間違いがない。「トリスタンとイゾルデ」と「マイスタージンガー」は実はペア作品であって、「トリスタンとイゾルデ」でショーペンハウエル的観念論や半音階と不協和音、変拍子を多用したオーケストレーションを集中投入した解毒剤として、喜劇であり全音階、ハ長調、四拍子を基軸とした「マイスタージンガー」を書いたような気がする。ワーグナー自身もハ長調主和音の安心できる響きが恋しくなった・・
つまりある意味、「マイスタージンガー」は「トリスタンとイゾルデ」の副産物としてできたものではないかと・・。指輪の作曲をジークフリートの途中で中断して「トリスタン」を書き、続けて「マイスタージンガー」を完成させているよね。その結果として、ヴェルディのオペラに似たようなものになっているのかもしれない。
武田 そういう理屈を言うところがワグネリアンなんですよ(笑)。
手塚 そうですよ。ワーグナーは基本的に理屈をこね回しながら作品を作っていったんだから。オペラはどうあるべきかとか、音楽の意味についてとか著作物もいっぱい残している。
ただワーグナーはヴェルディみたいに劇場での観客の受けはあまり意識していなかった。劇としての意味の一貫性を追求するため、昔起こったことやステージ外で起きたことの説明をレシタティーヴォ風の「語り」の場面で長々と説明して論理的一貫性を確保しようとする。だからながくなっちゃうんだけどね。ヴェルディみたいに「オテロ」の最後のところで劇の展開とは無関係な戦争のシーンを入れようと考えるなどということは・・・
加藤 あれはまさに伝統的なオペラ作曲家だからで、そうしないと、効果が出ないと思っているからなんです。
ヴェルディに対して、「そんなことをしたらシェークスピアがめちゃくちゃになってしまいますよ」とたしなめたのは、台本を書いたアッリーゴ・ボーイトのほうなんです。
手塚 多分ヴェルディは、大衆芸能の時代のイタリアオペラ作曲家なんだよ。それに対してワーグナーは宮廷歌劇場の世界を引き継ぐ作曲家だから、その宮廷歌劇場の惰性を否定して、その上を行こうとしたために思想や理屈を出して来てるんだと僕は思う。
武田 だから日本においても知識人が好きなのは、ワーグナーのほうになっている。だけど日本には歌舞伎という伝統があるでしょ。歌舞伎は庶民を含む都市住民を対象にしたエンターテインメントなんです。これはイタリアオペラと同じ世界ですね。天井桟敷の庶民が芸を磨き、平土間のお金持ちが金銭的なパトロンになって、育ててきた、という歴史も似ています。
加藤 「シモン・ボッカネグラ」をエンターテインメントにするというのはなかなか厳しいものがありますけどね。
手塚 だけどワーグナーがエンターテインメントじゃないとしたら、なぜこんなに世界中にファンがいるんですか。バイロイトもチケットがなぜ十年待ちになるんですか?
運営者 それは劇場のキャパシティーがないからですよ。
手塚 バイロイトもせっかく劇場までたっているんだから冬場にもやればいいのにねと。
武田 スノッブな人がいっぱいいるということでしょう。
加藤 バイロイトに行く人はそうみたいね。お客さんにつかまるたんびに、「わたしはバイロイトで、何年にクライバーが指揮したトリスタンを聞いた」といつも聞かされると、新国立劇場のあるスタッフがげんなりしてました。
手塚 でも、それは言いたくなりますよ。
武田 カントやショーペンハウエルをわかったふりをして、しゃべっているようなもんですよ。
加藤 そういうのと同列になってしまう何かが、ワーグナーには存在すると思います。思想というか教養的ステイタスシンボルということで。
武田 例えば女性による救済でもいいし、近代資本主義に対する批判でもいいんだけど、何かそういういかにも深遠な、形而上学的なものを表現してるように見えるんだけど、
片山 実際にはワーグナーの人生というのは、引っ括ってしまえば金と女でしょう。
手塚 そこはねぇ・・・ワーグナー本人が尊敬できるかどうかは、また別の話だから。
I女史 ワーグナーが人間的に素晴らしい人だと思ってる人は、あまりないと思う。
手塚 ヴィスコンティの「ルートヴッヒ」に描かれている通りで、人格は傲慢で最低なんだけれど天才であるという面白さが、彼にはある。