手塚 それからワーグナーは、心理的表現に注力している。複雑な和音や半音階の多用は微妙な心理表現に必要だったんですね。南欧の音楽ではヴィヴァルディみたいに全音階的明快さが主調だけど、ドイツ音楽では古典でもバッハの「マタイ受難曲」の最初の曲やモーツァルトのレクイエムの冒頭なんかで、半音階を多用して心理的に微妙な表現をたくさんやっています。それはドイツの伝統なんでしょうね。
ただ「ヴェルディの中でオテロ以降はなんか違うな」と思うのは、ワーグナーの影響を受けているからなんじゃないかな。オーケストラがそれまでに比べるとはるかにワーグナー的な音を出していると思います。音も結構引っ張っていますし。
もっというと「ファルスタッフ」の最後のところはフーガでしょう。これはバッハの対位法に戻っているわけです。
武田 別にフーガは、バッハのオリジナルじゃないですから。もともとイタリアのものであって。ヴェルディが最初の音楽の師であるプロヴェージからまず習ったのも対位法です。
加藤 ムーティが「ファルスタッフ」について本の中で書いてるんだけど、ヴェルディは。「ファルスタッフ」の中で自分の昔の作品をパロっている。例えばフォードが「嫉妬とはなにか」と歌っているけど、それは「オテロ」のパロディーなわけ。最初の方で、「名誉なんて腹の足しにもならない」というのは、それまで「運命の力」なんかでは、名誉のために決闘したりするわけじゃないですか。
自分がそれまでの作曲の中で散々こだわってきたテーマをひっくり返しちゃってるんです。これはすごいなと思いますよ。ヴェルディは自分の人生を振り返って客観視している。
武田 最後のフーガも、ある意味「人生は喜劇だ」という感じで・・・
加藤 そこまで行っちゃう作曲家ってなかなかいないんじゃないかな。
片山 自分の人生の最後に喜劇にで敵討ちをしたという感じです。
運営者 作曲家としては、喜劇でつまずいてきた人だから。
加藤 「一日だけの王様」などでつまずいて以来、絶対にブッファは作曲しなかった。
池原 私個人的には「ファルスタッフ」ではなく、「リア王」を最後に作曲して欲しかったです。
運営者 喜劇か悲劇か・・・ワーグナーは最後に「舞台神聖祝典劇 」なるものを書くわけですが。
手塚 そう聞くと、ワーグナーが「マイスタージンガー」でやったことを、ヴェルディは「ファルスタッフ」でやったんじゃないかな。つまり、自分にも「こういうもの(喜劇)が書けるぞ」とやりたかったんでしょう。老境に入ってあんまり劇場でのウケを意識しないで、書きたいように書くということで。
武田 全然違いますよ!
大体自分の実力が示したかったとしても、何で5時間もかかるオペラを書かなきゃいけないんですか。いくら長くても3時間が限界でしょう。
手塚 それはねえ、北ヨーロッパは冬が長いんですよ。夕方の4時から朝の8時まで真っ暗で闇があるんだから、長くてもぜんぜん平気。むしろ時間を有効につぶせないといけない。
ところで、ワーグナーの最後の作品の舞台神聖祭典劇「パルシファル」なんか、その次の時代の音楽につながる作品と位置づけられていますが、ドラマ自体は聖杯の騎士が主役でキリスト教の衣はまとっているものの、何の宗教か分からない得体の知れない世界になってます。
本来は聖人であるはずの聖杯の騎士たちの合唱なんて、不治の傷に苦しむアンフォルタスに儀式を強要するナチスの軍歌みたいに暴力的で強圧的に書かれていますしね。ワーグナー自身の計画には「勝利者たち」って仏陀の生涯を描く楽劇の構想もあったそうですから、キリスト教と聖杯伝説はあくまで題材でしかなかったのではないかと。
運営者 いちおうカソリックみたいですが。
武田 インディー・ジョーンズの世界に近いね。
手塚 インディー・ジョーンズが「パルシファル」と「ローエングリン」の聖杯のモチーフを使っているのは確実ですよ。
運営者 ナチスが聖遺物を必死で発掘してたのも事実だし。
片山 ワーグナーの次の世代のシェーンベルクとカンディンスキー、この2人は親友なんです。
カンディンスキーはシェーンベルクのために絵を描いてあげたりしている。
加藤 カンディンスキーは音楽もプロ並みですよね。
片山 2人とも、広い意味でのそれまでの古典に終止符を決定的に打ち、カンディンスキーは抽象画の元祖となり、シェーンベルクも現代音楽に大きな影響を与えている。その2人はドイツから出てるんですね。
手塚 ドイツは基本的に観念論で、なんでも理屈から始めますな。確率統計学を駆使した12音音楽とか。