12時30分、どうにもサドルが高い自転車に乗って、パレルモ市内観光スタート。
ヨーロッパ製の映画を見ていると、自転車に乗っている人がよろよろ乗っているように見えるが、あれはサドルが高いからなんだということに気がつく。最初は「快適かな」と思ったものの、石畳の道に入るとガタついて実に不愉快である。おまけに狭い道を小さな車ばかりでなく大型車までガンガン走ってくるので生きた心地がしない。さてどうすればいいものか。
しばらく走ると、快適に走るためのコツがわかってきた。まず石畳の道は避けなければならない。メインの広い道は、ちゃんと舗装されているのでそういう道を選んで通るようにすればよい。リベルタ通りなどという名前は、日本でいうと平和通りのようにどこにでもある名前だが、そういう戦後拡張されたような道はたいてい舗装されているし、メーンストリートになっている。地図の上でそういう道に目星をつけて、行きたい場所にその道を通って接近するわけである。
しかしもうひとつの問題があった。信号がほとんどないので道路を横断することができないのである。
信号がなくっても、車は道にあふれんばかりに走っている。こちらはよろけながら運転していて、停車すると足が地面ににつかないような状況だ。それで車の流れの激しい片道2車線の道路をどうやって横断すればいいのだろうか。仕方がないのでしばらく原住民がどのように道路を横断しようとしているかを観察してやっとコツがのみ込めた。
道を渡りたいときは、ものすごいで勢いで走ってくる車の正面に対して覚悟を決めて立ち、「もう俺はこの車にひかれて死んでもいいや」と意を決して車の前に大きく足を踏み出す。そうすると車は必ず止まってくれるのである。信じられないことであるが、これは事実だ。逆に言うと、止まれないスピードで走っている車はいないということである。だから交通の効率は非常に悪い。
くだらない話だと思われるかもしれないが、これはしかし重要な発見だと思った。日本では歩行者優先の思想が浸透しているので、歩行者が横断の意思を示して歩道に立てば、気が付いた車は止まってくれる。それを待って横断すればいいとみんな考えている。しかしこの国では、歩道に立っていたのでは一生車は止まってくれない。多少の危険は承知で自分が身を挺して初めて道が開けるという経験を子供のころから生活の中で身につけていれば、「自分が何かやりたいと思ったときには大きく一歩を踏みださなければならない」、即ち「リスクをとる」発想法が身につくだろう。あるいは「こうしたいと思ったときには、とりあえずやってしまう」という行動の姿勢ができあがるはずだ。
そしてそれは「自己責任」において行うということである。
そう考えると、人の考え方というのはその人が生まれ育つ社会のルールや環境、文化の影響をきわめて強く受けていることがわかる。文化的な遺伝子のラマルク的継承はこのようにして行われているのである、いや、大袈裟でなく。
カテドラル
それと、とにかく街角に立って警戒している警官の数が多い。ナポリも多いと思ったが、この街はそれ以上である。考えてみると、一時期この街は完全にマフィアの支配下に入っていたわけで、今だってそうかもしれないが、人口あたりの殺人事件発生率は世界一という名誉にも輝いている街なのである。