2時。イヤホンガイドを返して、ぶらぶら歩く。サンマルコ広場の海に面した側にツーリストインフォメーションがあるので行ってみる。ベネチア・パビリオンという名前で、土産物を売ったりイヤホンガイドを貸し出したりしている。ここでイヤホンガイドを借りる。それを耳に当てて聞きながら、バスに乗って大運河を遡上する。
考えてみると、今回の旅行でイヤホンガイドをかなり借りたが、日本語のものは全くなかった。ベネチアには日本人がこれだけ溢れているのに、なぜ日本語のイヤホンガイドがないのか。ひょっとして、日本人は買い物しかしていないのではないだろうか。まったくもったいないことだと思う。なぜ観光客をひきつける現代でも魅力的な街がそこに残っているのか。なぜこのような海の都ができたのかということに少しでも興味を持てば、その成立機序を知ろうと考えるはずだ。そしてこの街のことを知りたければドゥカーレ宮に行けば事足りるのである。
イヤホンガイドガイドがないということ自体が、日本人の文化的な程度の低さを表しているように思えてならない。ぼやきに近いような話だが。
大運河には、13世紀以降の、さまざまな建築様式の建物が並んでいる。見ているだけでも楽しい。恋人たちはゴンドラに乗って記念写真を船頭に撮ってもらっている。実にのどかな光景である。
ところでこの町には下水がない。全部垂れ流しなのである。そう考えると、決してここの水はきれいなものではないので、表面上ロマンチックに見える街並だが、それはフィクションにしか過ぎないということに気がつく必要がある。ベネチアはそういう装置なのだ。
駅前でバスを降りて、ゲットーに向かう。
キリスト教は利子を取ることを禁じていたため、金融業に従事できたのはユダヤ人だけだった。14世紀中ごろ、ベネチア共和国はユダヤ人を厳重に監視し、商売にも規制をはめた上でベネチアに居住させることにした。そこで作られたのが、最初のゲットーである。ここにはそれまで溶鉱炉の施設があり、その溶鉱炉がゲットーの語源になったのだそうだ。
この地域は当時は2つの橋で他の島とつながっていた。だからそこさえ見張っていれば出入りを監視することができた。現在は3つ橋がかかっているようだ。
行ってみると、商店の上にダビデの星の飾りがあったりして、いかにもそれらしい。非常に古くさい建物が広場を囲んでいて、洗濯物が干してあり、プラハのユダヤ人地区と比べると貧しげな印象がぬぐえないというか、あまりにもイメージ通りで恐ろしいくらいだ。しかし、外がみずぼら悪しくても中に入ると豪華で快適な空間が広がっているというのがイタリアの住宅なので、実態はよくわからない。広場の一角には、第二次大戦中に収容所に送り込まれるために貨車に詰め込まれるユダヤ人の姿を彫ったレリーフがある。ユダヤ教と共にホロコーストが彼らの文化的統合を今日でも支えているということがわかる。