やっていけないことはない
そういうふうな企画とか、あるいは、自己啓発といってもまあ今みたいに複雑なものじゃなくて、非常に単純なものではありますけれど、たとえば、仏教ものとか般若心経なんていうのはとにかくヒットしましたね。売れに売れた。
僕がプレジデントに入ったのは、87年なんです。その時っていうのは、「プレジデント」は「日経ビジネス」をグッと押さえて日本一のビジネス雑誌だったわけですね。だから入ったわけなんですけれど。後になって「話が違うじゃないか」ということになったんですけれどね(笑)。
一番売れたのが、89年6月号ですね。それは般若心経の特集でしたね。その前の5月号が諸葛孔明、三国志をやったんですけど、これも売れましたね。もう何をやっても売れるという時代で、当時、編集長は朝日新聞のインタビューに答えて「お札を刷っているようなものですから」と(笑)、大きなことを言ったもんですよ。まあしかし、トップであるということはいろいろいいことがあって、勢いもあったし、「やっていけないことはないんだ、雑誌の上では」ということを学ばせてもらったということがあるんですよね。
で、こういうふうにしてビジネス誌はテーマがグッと広がった。「日経ビジネス」は、新聞をベースとしたもので、日経新聞との人的交流が非常に多いので、非常に新聞に似たものではあります。
また、記者の数も多いので、「プレジデント」と「日経ビジネス」では何が違うのかといったら、当時の「プレジデント」っていうのは1ダースぐらいの人間で作ってたわけですよ。もっと少なかったかもしれない。まあ10人前後ですね。それで500ページからの雑誌を作っていたわけです。
日経ビジネス」の方は、30人とか40人とか記者がいまして、自分で書いていたわけですね。「プレジデント」の方は、筆者に頼むわけですよ。90年代前後なんていうのは、歴史物の特集を書いている人が全部直木賞作家とか、そういうふうな恐るべき力を持っていた時代だったわけですよね。
だから、そういう「プレジデント」と、取材力で頑張ってる「日経ビジネス」がガチンコで戦っているような状態の中で、かつ月刊ビジネス誌というのが、当時は中央公論が出していた「WILL」、それから講談社が出していた「NEXT」、それから世界文化社が出していた「BIGMAN」、そういう雑誌も横にあったんですよ。だから、20日が発売日だったんだけど、みんな20日になったら書店に行って、どれ買おうかなと選んでいるというふうな黄金期というのが、86、87年から91年くらいですかね。この時代に、このようなネタというのが開発されていったわけです。
それと並行して、85年に「マネー雑誌」っていうのができてきました。これの最初というのは、タイムが出していた「MONEY」という雑誌がアメリカにあるわけでして、それを輸入して出そうという話が、最初に合弁会社だったプレジデント社に持ち込まれたんだけれども、まあプレジデントの方が出す自信がないので、「西武タイム」という西武とタイムの合弁会社があって(いまの角川SSコミュニケーションズですよ)、「レタスクラブ」を出していたとこですけども、そこに編集部を作るっていうので、プレジデントの人間が何人か出向して創刊したのが「マネージャパン」なんです。今も残っていますが、そこで初めてマネー誌のパターンというのが作られたわけです。
で、まったく同じ時期に、日経ホーム出版社が「日経マネー」というのを出したわけです。「マネー」っていうタイトルをめぐって争いになったということもあったんですけれど。それが最初ですね。
だから、マネー誌というのが今いくつか「あるじゃん」とか、あるいは「ZAI」とか出ていますけれど、その最初というのも、この80年代中頃の話であったということです。