なぜわたしは編集長なのか
FJの話をこれからしていきたいと思いますが、僕とそのFJの関わりというのは、整理しますと、木村剛と初めて会ったのが、1990年の4月だったんですよね。
まあ勉強会で知り合ったんですけれど。彼はその後ああいう感じでKFiを起業して、僕はプレジデントを99年に辞めて、本を書いたりしてました。
2003年の5月くらいですかね、彼が「雑誌を出したい」と言ってきたんですね。実のことを言うと、僕はもう雑誌って飽きちゃってというか、あんまり興味がないっていう状況だったので、「はあ、そうですか」っていう気のない返事しかしなかったんです(笑)。
で、半年ぐらい経って、11月くらいに「本当に出す」って言うんですよ。すごいですよね。雑誌なんか出せないですって。大変なんですよ。お金かかるし。すごいなあと思うんだけど、その時には僕は「編集長はちょっとあんまりやる気ないんで、顧問ということなら」と。
なんでかというと、木村剛っていうのは、すごい義理堅い人間なんですよ。そんなふうには見えないので、他の人は知らないでしょうけれど(笑)、ほんとに義理堅い人なんですね。僕、いろんなことを頼みにいったけど、断られたことないんですよ。そういう人が頼みごとをしてきたのでは、やっぱり断れないということがあって、「わかりました、立ち上げは手伝いましょう」という感じで。まあ、その時点でやっぱり彼の勝ちなんですよね。
だから、顧問という形で、じゃあ週1回くらいここに来ていろんなところで助言をしましょう、という話になるのかなと思ってたんですよ。そしたら、そうならなかったんですね。
なぜかというと、2004年の3月に、僕は3週間くらいヨーロッパに遊びに行ったんですよ。塩野七生さんという作家でローマ史をずっと書いている人のところに遊びに行って話をしてる中で、「そういえば木村剛がね、こういうことをやろうとしてるらしいんですよね」と話したら、彼女が「あーらいいじゃない、あなた編集長やりなさいよ」(笑)。「え!俺ですか?」「そうよ」「いやーちょっと、うーん」。で、話してて、「じゃあ明日も来なさい」。結局「はい」と言うまで帰してくれなくて(笑)、
それで2晩がかりで説得されまして「じゃあわかりました」と。
どうして僕がそういうふうにごねたかというと、本当に大変なんですよ、雑誌作るのって。創刊誌って、それはね、半端じゃないんですね、たいへんさが。私は知ってますから。だからなまじの覚悟じゃできないんですよ。木村剛は、あれはもう覚悟の塊みたいな人間ですからいいですけれど、私はそうじゃないですからね(笑)。
まあしかし、結局「やります」と言った以上、やらなきゃいけないと。そんなことで雑誌を立ち上げるというふうなことになったわけなんですよね。
それで、2004年3月31日に旅行から帰って来て、4月から僕はここに来ることになっちゃって、結局、編集長ということになってしまって。木村剛の完全な作戦勝ちなんですよね(笑)。