ステーキ屋
「トスカ」のプログラム 5時、ロビーで声楽の余韻に浸っていると、S氏が迎えにきてくれた。彼とは7年ほど前に武蔵野稲門会で知り合った。だから彼の実家はウチの近所だ。私が稲門会と名のつく集まりに顔を出したのは後にも先にもその1回限りなので、貴重な邂逅である。彼は素材メーカー勤務。NYに駐在して2年半。
リンカーンセンターの正面の道に、奥さんが車を止めて待っていてくれた。はじめまして。奥さんは、大学に中世美術史の勉強に通っているという。イコンとかの類だ。私にはさっぱり分からない分野だ。彼らは12月末まで2人でペルーに旅行していたという。ペルーといってもリマではなく、遺跡のある山の上の方だそうだ。どうやらS夫妻は、典型的なヤッピーのNY生活をエンジョイしていらっしゃるらしく、私もその一端に触れることができたのは興味深い体験だった。
5時45分、車でマンハッタンを下り、またしてもブルックリン橋を渡って、PETER LUGERというステーキ屋の駐車場に乗り付ける。露天だが、制服を着た若者が、駐車場の入り口でがんばっているので安心だ。寒いのにごくろうさん。
道を渡って店の中に入る。ドイツの田舎屋風の内装。バーをかねたエントランスに、毎年のZAGATのこの店の評価が、麗々しく額に入れて並んでいる。ちなみに96年版ではニューヨーク中の飲食店の中での順位が7位。空港で買った97年版では9位となっていた。ステーキ部門ではもちろん一位。アメリカで一番うまいステーキ屋なのだそうだ。実はS夫妻は、11月から予約していたとか。そのくらい前からでないとブッキングできないそうな。4人掛けのテーブルしかないので、僕も割り込むことができたという次第だ。
メニューを見ると、前菜の他は1人前、2人前、3人前としか書いてない。S氏が3人前を取るのと、1人前を3つ取るのとどう違うのかと聞くと、「1人前を頼めば全部焼き方を変えることができる」とのもっともな返答。
まず、前菜でトマトのスライスを頼んでみる。これが大味で、うまくもなんともない。大丈夫なのだろうか。3人の顔を不安が横切る。ジャーン! 3人分、ミディアムレアで頼んだTボーンステーキが登場する。
ウエイターが違う部署を切りわけてくれて、油をこってりかけてくれる。それを一くち口に運んでみて、なるほどアメリカで一番うまいステーキという看板に偽りなしを納得した。表面は、よほど強火で焼くのか黒こげになっているのに肉の内部はきわめて柔らかく、とろける食感である。見事だ。最高のステーキを堪能し、「HOLY COW」という名のチョコレート・アイスクリームまで腹に詰め込む。
S氏が中西部に行ったときに行った、たいへんうまいステーキ屋の話を伺った。その店は昼飯は馬を連れた人も食べに来るのだそうだ。やはりたいへんな強火で肉を焼くのだという。あまり火力が強いので、10年に1度の割合で、周期的に火事を出し、店自体が丸焼けになってしまうのだそうだ。
さて、支払いという段になって、この店ではカードが使えないということが判明する。全員の現金をかき集めて支払う。チップ込み200ドル。