11月7日
急いで駅に向かう。2分遅れで来た12:55発の電車に間に合う。いったいイギリスの国鉄は相当いい加減で、列車は来ればいい方で、来ないということもないではない。ただし、行き先やキャンセルはVDTにちゃんと表示される。
チャリングクロスから一駅のテンプルに地下鉄を乗り継いで、デントンホール国際法律事務所にK氏を訪ねる。彼は早稲田の法学部卒業後、ノッティンガム大学で国際法を大学院で勉強し、「さらに2年間学費を出してやる」というデントンホール国際法律事務所(イギリスでは14位くらい)の甘言に乗って、8年間ロンドンに居続けている。
ただし早稲田卒業後すぐ結婚した奥さんは、こちらでビジネスものの本格的な翻訳業をやっているし、彼自身は土日をフルに草ラグビーに費やしているので、帰りたい様子もない。体育会でやっていたが、負傷後は母校の学院でコーチをやっていたという。
道を挟んで向かい側の最高裁の隣にある法律協会で食事をする。最高裁は多くの尖塔を持った城のような建物だが、法律協会も相当シックな建物だ。
彼は主に日本企業を顧客としたM&Aや不動産取引を仕事の領域としているらしい。いろいろ聞くと、この法律事務所は、弁護士だけで世界に500人。顧客は企業で個人向けサービスはやっていないらしい。
一時はヨーロッパの映画のファイナンス契約を一手にやっていたとか。
イギリスの弁護士は人口当たりだと日本の十倍いるというから、1000人に一人という計算になる。こちらの弁護士の一番単純な仕事は、不動産屋(エステート・エージェント)の二階にいて、契約がまとまったらローン・アグリーメントやファイナンスの契約書を作ることなのだそうだ。
イギリスの土地売買は複雑で、99年リースとか、999年リースとかがある。香港の領有もこの伝の契約だが、重要なことは、彼らは彼らのやり方を未開の地に持っていってそこで実行することにある。ロシアや中国に、法律や契約概念や、会計が存在しなければ、それをまず持っていって仕組みを作ってから「契約」を結ぶという考え方である。そこにはなあなあはないし、白黒はっきりさせる土壌が存在する。
また面白いのはPFI(PRIVATE FINANCE INITIATIVE)というシステムで、イギリス人が発明したプロジェクトファイナンスの方法だ。一般的なのは鉄道で、鉄道を引く計画が持ち上がると政府はどのような料金を徴収する条件にするかを明らかにし、土地を貸与し、そこに鉄道を引く民間会社を競争的に決定し、鉄道敷設の権利を与える。民間会社はコストを押さえつつ、鉄道を引くので政府は公共事業予算拡大のリスクを押さえることができる(一般的に鉄道の運用は、鉄道会社がまた競争的に入札で決定する)。こうした方法で刑務所や通信インフラ、発電所、病院(まだ一カ所のみ)をつくっているらしい。
このPFIの話は面白いので、行革の一手法として、幾つかのルートから電子メールで日本にレポートした。帰国してからいろいろな会合で「PFI、PFI」と盛んに言われるのを聞いたので「PFIとは何か?」と訊ねると、このPRIVATE FINANCE INITIATIVEのことだと判明した。この手法はいまや、大流行している。
地下鉄でオックスフォード・サーカスへ。安いメンズ・ショップが並んでいる通りでセーターを2着買う。それからうろうろと歩いていくと、やたらカフェやポルノショップの多いけばけばしいところに出た。騎馬警官がいたので馬をからかう。コンテンポラリー系の絵を並べた変なバーや、LPレコードを売っている店がある。これが音に名高いsohoか。ちなみにNYの方はSohoなのだ。
シャフツベリー・アベニューを歩いていくと、この辺がロンドンの神田書店街。個人金融資産管理のハウツー本を買う。ここは素晴らしく大きな書店だった。そこからBEAUTY&BEASTの看板を眇で見て「絶対見ないぞ」と思いつつ、トッテンハム・ロードにはいると、そこはロンドンの秋葉原。電話線の変換コードを買う。
しばらく歩いてシャフツベリー劇場に着く。ここでロイヤル・オペラが「メリー・ウィドー」をやっているのだ。学割で最前列の席を買う。客席に入る前に「何席ある」と聞くと「1320席に立ち見28席とのこと。たった1320席でオペラができるのか? ゛ジーザス・クライスト・スーパースター」をやってた劇場の方が明らかに大きい。今世紀初頭に完成した、ごてごてした彫刻のむなしい劇場である。荷物を預けて席に着く。
私はロイヤル・オペラがここまでひどいことになっているとは思わなかった。
ロイヤル・オペラのマークが入ったセーフティー・カーテンが上がると、セットは一切ない。さらに6種類くらいの赤、青、白の書割りが上がり降りするだけである。しかもその書き割りに書いてあるのは、莫山先生もびっくりの子供の落書きなのである。これではあまりに馬鹿にしている。照明もほとんど変化しない。舞台はかなり間口が狭く、奥行きもほとんどない。小道具は椅子のみ。権助芝居もビックリだ。これがロイヤル・オペラなのか。
上演は英語。ウィーンでドイツ語の「マイ・フェア・レディ」を見たのを思いだした。演奏は弦も管も最低。こんな眠い「メリー・ウィドー」は初めて聞いた。こいつらにワルツは無理だ。フォルクス・オパーの上演とは比べるべくもない。一応バレーやフレンチカンカンもあるが、舞台が狭いのでバレリーナも力量を発揮できない。SHABBYというのはこういうことだなと納得。
幕間、なぜSTALL、ロイヤルシート……とラウンジが別れているのか不思議に思っていたが、ラウンジに出てみるとあまりに狭くて立錐の余地もない。ワインを買ったが、まともに飲めない。そこにもってきて、老婦人が倒れたのでほとんどパニック状態になっている。
日本人らしいのをつかまえてなぜこんな事になっているのかと聞くが、地元の人に聞けと言われる。そこで座席に戻り、隣に座っている老夫婦に「あのう、もし差し支えなければお答えいただけるとありがたいのですが、なぜロイヤルオペラは財政危機なんでしょうか」と聞くと「彼らはコベント・ガーデン再建のためにお金を貯めなきゃならないからね。あそこはあまりに古くなったから。それでロイヤルオペラはロンドンのあちこちで転々としてるんだよ。毎日この話はどこかの新聞に載ってるよ」との返事。
「どうして政府が金を出さないんでしょうねえ(と、ちらと第2国立劇場のことが頭をよぎる)。オペラはあなた達には大切なものだと思いますが」「そんなの知らないよ。ぼくたちアメリカ人だもんね」「えっ、はあそうですか。METは素晴らしいですよね」「しかもMETは政府から一銭ももらってないんだよ。アメリカ人はイギリス人より寛大な人が多いんだ」とにべもない。
プログラムを見てみると、コベント・ガーデンは今世紀中の再建を目指すと書いてある。「どこかいい劇場を探している」と書いてある。舞台を失ったオペラ座とは惨めな話だ。なぜこんなセコイ新作をやっているのか。新しいのをやらないといけないのだろうか。
ここにイギリス人の合理主義的割り切りの真骨頂を見る気がする。