11月27日
7時間。昼飯はANDRESとウィンディーズで食べる。フェルナンドが何も頼まずに同席してうるさい。授業終了後、とっととNAOKOと一緒にクロックハウスへ。フェルナンドはうるさいので見捨てる。
5:10の電車でキャノン・クロス経由でレスター・スクエアへ。パレス劇場で切符をくれというと、£35の席か£7の席しかないと言う。NAOKOは£7の席しか買えないと言う。全くかまわない。どうせもう一度見に来るつもりだ。
切符を懐にトッテンハムコートロードを15分ほど歩いて、雑誌で見つけていたFRIGHTBOOKERSへ。ミラノ行きの切符を買う。往復£200。ミラノからギリシャ行きを買おうとしたが、日曜帰りは£600もするので諦める。クリスマス休暇なので高額だ。なんとかなるだろう。その場で発券してくれた。
劇場に急ぐ。すごい天井桟敷だ。
さて、「レ・ミゼラブル」。この素晴らしいミュージカルを、何から語ればいいだろうか。
私はニューヨークで得た印象を、さらに強くした。ここから語るのがいいだろう。96年の大晦日、私はニューヨークでこの舞台を見て虜になってしまった。ユーゴーの長大な原作をかなり見事にまとめたミュージカルである。
では、ユーゴーは何を語っているのか。ジャン・バルジャンは、人の心を持たぬ無頼漢であったが、ある神父に示された慈悲によって「愛」という感情を知り、人のために尽くす喜びを知る。彼は事業に成功するが、常に人々に対して慈悲深く振る舞い、市長として仕事を果たし、コゼットを引き取って育て上げ、青年マリウスと結婚させて彼らに幸せをもたらし、ひっそりと息を引き取っていく。彼は「無私」の権化である。
一方、王政を倒したパリの民衆は相変わらず飢えていて、貧困、孤児、売笑婦がパリの看板である。彼らは自分たちの自由を回復し、自らの政府を建てるために常に革命をたくらんでいる。この劇の背景は、失敗した1832年の蜂起である。この時バリケードに立てこもったのは、原作によると40人であった。彼らは自らの命をかけて政府に対抗するのである。革命とは、究極の社会参加である。
つまり、ジャン・バルジャンという絶対的かつ盲目的な無私と、革命という究極の社会参加の持つ劇性こそがこのミュージカルを他のどの演劇も到達することができない高みに押し上げているのだ。
ただ他人のためだけに生きて死んだジャン・バルジャン、まったく無謀な蜂起による有為の青年たちの犬死、エポニーヌの報われない愛と死、国家の定めた法とジャン・バルジャンの示した愛との矛盾に苦しんで自殺する警視ジャベール……しかしこれらの尊い努力が積み重なって、他ならぬわれわれ自身が生きているこの「社会」が構成されているのだという厳粛な事実を、「レ・ミゼラブル」は余すところなく胸に刻みつける。ユーゴーはまったく偉大である。