11月27日続き
もちろん、ユーゴーはそうした社会悪の主体である倫理観を喪失した人間=ティナルディエ夫婦=も狂言回しとして登場させ、人間の負の側面に光を当てている。彼のような人間も人々の運命に大きく関わっているのだ。
97年の正月に日本に帰った私は、大蔵官僚や金融機関幹部の、不正を不正とも思わぬ厚顔無恥な振る舞いに驚愕し、また「レ・ミゼラブル」に描かれている精神がまったくわが国に欠落していることに思いを致して深い絶望感を味わった。
だが今回さらに感じたのは、個人個人の積極的な社会参加がなければ、社会というのは立ちゆかないのが当たり前なのだということだ。生きるということは闘争以外の何物でもないのだ。建設的な闘争を不断に試みなければ、社会や組織の崩壊はいともた易い。
なぜ日本の組織は死んでいるのか、なぜ日本の金融機関において株主や取引先を欺き社会を混迷に陥れる不正が罷り通るのか。それは個人が真摯に社会参加をする姿勢、生きる姿勢についての「美学」、ぎりぎりの瀬戸際で「価値」とは何かを追及する態度を日本人はどこかに置き忘れてきてしまったからではないだろうか。
未だに「家意識」から逃れられない日本人は、組織を守ることを第一目的としている。しかしこの劇の登場人物は自分を裏切ってまで生きるということはしない。信じるもののために死んでいく。私には、組織を守ることを個人の行動の第一目的に置くというのはまったくのナンセンスだとしか思えない。組織だけが残って個人がないがしろにされるのではまったく無意味だ。
しかし、自己目的化した組織防衛の前には社会的な善悪の観念すら存在しないキチガイじみた日本の組織の中で個人が生きていくためには、自分の信念を裏切るか、思考を停止するしかないというのが現実だ。
だが、もしそれに矛盾を感じるまともな人がいたならば、間違っているのは組織の常識の方であり、正すべきは、そこに安住する組織成員の社会参加の姿勢の方だと思って間違いがないだろう。
日本人は何も考えていない。考えないこと、意見を表出しないことが美徳とすら考えられている。こうした姿勢は組織の緩やかな死しか招来しない。限界的なところで常にリスクを取りつつ必死に知恵を絞ってこそ、社会は生きる活路を見出し、組織は前進する活力を得るに違いない。その主役は常に、個人であるはずだ。
そして真摯に生きる人たちは、決して失敗した努力を無駄とは考えないだろう。なぜならたとえ一時的には無意味に思われることでも、結果的には大きな社会の変革をもたらすことを彼らは感覚的に知っているからである、ロシア革命に至るまでの人々の努力のように。そしてそれを知る人間だけが、革命の旗の下に死ぬことができる。革命の旗の下に死ぬことができる大丈夫を得られなくなった社会は死んでいくしかない。
私には、今の日本はそうした滅ぶべき社会の仲間入りをしてしまった、遂にポイント・オブ・ノーリターンを越えてしまったように思えてならない。当地に来てますますその思いを強くする。日本からのニュースを聞いてではなく、こちらで多くの日本人と接触しての感想である。
恥ずかしながら、ここまで涙を流しつつ舞台を見たことはない。内容を知れば知るほど、そして日本社会の現状に思いを致せば致すほど、劇中の人物に深く感情移入してしまう。私はこのミュージカルに全面降伏するしかない。
舞台はニューヨークの方が天井が低い。演出や装置はすべて同じである。役者の歌唱力は、ロンドンの方が上ではないかと思う。ただし、ジャン・バルジャンには存在感がない。おそらく毎週木曜日は代役なのである。
11:22チャリング・クロス発の電車に乗って帰る。0:00帰宅。