この年の一番思い出深い仕事を3つあげるとすると、
9月号 大赤字必至「関西空港会社」は倒産させよ 大前 研一
7月号第2特集 人事部長100人アンケート
城南電機 宮路社長の本
となるだろう。
関西空港の記事については、1994年 ぼくはこんな記事をつくってしまった に書いたので重複は避けるが、社会的な反響を呼び、大きな手応えを感じた仕事だった。
「人事」については、私は野郎自大な人間なので、人が私をどう評価するかについては全く興味なく生きてきたから、苦手な分野であると自認してきた。編集長に「やってみるか?」と聞かれてやや逡巡したものの、しっかり勉強してみることにした。助かったのは、通産省の友人にヘイコンサルティングの田中社長のことを教えてもらったこと。5月の連休を完全に潰して田中氏の自宅近くにまで押し掛け、彼の骨格で企業へのアンケートのたたき台を作った。編集部員が手分けをして面談方式でアンケートを行い、120社の人事部課長から回答を得た。それを田中氏に分析してもらって、この時点で日本の大企業が人事制度をどのように捉え、改善していこうとしているのかをしっかり把握することができたと思う。この時の蓄積は、後に企画を立案するときも随分役に立った。
また、この年初から春にかけて、前年に取材で知り合った城南電機の宮路社長に取材して本を作る話を進めた。その間にぐんぐん社長の人気が上がってきたので、「プレジデント」にも再度登場してもらったりした。例のロールスロイスで千葉までドライブしたりして、なかなか楽しい思い出だった。世間は彼のことを誤解しているが、私は大変立派な人だったと今でも尊敬している。本の方は初版1万部だったが、さっぱり売れなかった……。
いきなり金沢に出張を命じられたのもひどい話だった。水曜日の夜に、いきなり「土日で金沢の和菓子を取材してこい」と下命されるのである。なんのとっかかりもないし、菓子のことなんかさっぱり知らないのに、グラビアネタがいるというので有無をいわせず行かされた。ほとんどいじめのような話だが、そうした無理な指示も確実にクリアすることを心掛けていた。なぜなら、「プレジデント」で要求されるスタンダードがさっぱりわからないので、常にどの仕事においても自分が考え得る最高のレベルを追求するしかなかったからである。
とにかく働きづめに働いた。3月号、7月号、8月号、10月号は、一人で50ページ以上作った。編集マシーンである。手帳を見ると「会社泊」「休日出社」という記述がかなり多くみられる。この頃はほとんど会社に住んでいたようなものだった。よく仮眠室で夜明かししたものだ。まったく今考えると自分で自分がかわいそうになる。校了期は睡眠時間が足りず、トイレの個室でうとうとしたことも一再ならなかった。
9月頃、S編集長が更迭されることがわかった。私には、新旧どちらの編集長が有能なのか判断する余裕も能力もなかった。ただ残りの10月号、11月号も膨大なページを抱えていたので、これを作ることで精一杯だった。だからして、編集幹部の交代にも何の感懐も湧かなかった。
なんの潤いもない日々で、B&Bのほうも講師招聘の手間がなかなかかけられないので活動が滞りがちだったが、1,2カ月に一度の勉強会とパーティーをこなしていった。それとこの年の秋には世界中の音楽家が大挙して来日した。コネを使ってキップを入手し、音楽に身を浸すことだけが心のやすらぎとなっていた。特に、10/12に観たカルロス・クライバー指揮・ウィーン国立歌劇場の「薔薇の騎士」は忘れられない感動を与えてくれた。これは天上の音楽、夢の世界だった。