最高に充実した時期が続く。
B&B関連では、昨年末に私が開拓したアメリカ大使館ルートから、アメリカ大使館員との交流会、Bilateral B&B Study Groupが3月にスタートした。これは全て英語で討論するという会合で、私は第1回だけ出席して(自分で人を集めておいて、何を話し合われているのかさっぱり理解できなかった)、後は失礼させていただいた。
もう一つ、政治経済以外の文化事象について話す場を作ろうと、「文化を語る会」というのを5,6回開催した。B&Bメンバーとの旅行や合宿もかなり頻繁に行った。とにかく、社会活動が花盛りだった。P編に移ってからは、それ以前の蓄積で食べていたようなものだが、この時期はその総決算だった。その後大変お世話になる先生方も、勉強会の中で開拓していくことができた。
5月頃、「P編への異動」を内示されたので、こうした活動にもおさらばだなと覚悟を決めた。つまり私は、なんだかんだ言っても「プレジデント」での仕事を本筋の仕事と考えていたわけである。これは異動に合わせて改名したことでも明らかだ。
そこで6月半ばには12日ほど休みを取って、ベルリン・ウィーン・ザルツブルクに旅行することにした。まったくチケットを手配せずに行った割には、毎日音楽会にありつくことができた。ウィーン・フィルの妙なる調べに、私は生まれてはじめて6/10に接したのだが(ジュリーニ指揮、フランクの交響曲、ブラームス2番)、恥ずかしい話、そのあまりの美しさにただはらはらと涙を流し続けていた。衝撃的な体験だった。また、6/6にベルリンで観たオペラ「神々の黄昏」の演出にも衝撃を受けた。天才ゲッツ・フリードリヒが神代と現代を見事に繋いだフィナーレには息を飲まされた。表現者として舞台芸術から学べるものはぜひとも取り入れたいものだ。
こうして満腹して帰国した私は、仕事に埋没する覚悟を固めていた。
7,8月は移行期間だった。「カレント21」は後輩に引き継いだ。9/1の佐々淳行氏に無理矢理お願いした座談会から、私は仕事の鬼の道をばく進した。
P編に来て驚いたことを列挙すると、
編集の方針、ルールが明示されておらず、制作プロセスすらも新人に伝える方法が確立していないこと
仕事はやりっ放しで、結果を評価してフィードバックされないこと。従ってどのような仕事がよい仕事として評価されるのか皆目見当がつかないこと
仕事量の目安がないこと。全ては編集長の目安で差配されること
とにかく仕事に真っ正面から取り組み、自分の持つ能力と資源の全てを傾注する日々だった。しかし、「プレジデント」におけるスタンダードというものが全くわからないので、相当戸惑いを憶える毎日だった。
仕事の指示は、編集長から突然何の前触れもなく与えられたが、そうかといって無理難題というわけでもなく、私がどういう能力と資源を持っているかを勘案して出されるものであった。仕事はきつかったが、与えられた指示をこなすことに喜びを感じることができた。今までのように指示が与えられないので自分で道を探るよりは随分ましなことだと思っていた。