編集体制は一新した。
N新編集長を中心とする編集幹部は、合議による意思決定と自発的参加を重んじた。前編集長流の戦術の押しつけへの反発という側面が非常に強かった。
私の参加態度としては、目玉企画は編集幹部が作るのであるから、編集幹部から指示される目玉ネタの追求には全力を尽くす。それと並行してビジネスに重きをおいた総合雑誌としてフォローしておかなければならないネタの取りこぼしがないように、自分は経済を中心とした周辺ネタを拾って提案しようと考えていた。だからCALSやエンパワーメントといった絶対ウケそうにない新概念の解説記事などを進んで引き受けた。この部分が自分の仕事だというしっかりした自覚があった。
「IT」という概念をいち早く紹介したのもこの頃である。
また私は、特集を大勢の企画を寄せ集めて作る方式には限界があるのではないかと思っていた。専門的な企画であれば、全員があいまいな知識で企画を持ち寄るよりも、一人の人間が企画の大部分を立てた方がいいのではないかと考えていた。そこで私は6月号の「人事」企画の骨格を作ったが、結果としては全く受けなかった。5月号の第2特集「危機管理」もほとんど自分一人で作った。
逆に10月号は、第1特集巻頭の小林一三の記事だけ作って、後はなんにもしなかった。
3月号は新「プレジデント」としてのエポックであった。先輩と二人で提案した「営業特集」は大ヒットし完売した。もっとも、われわれが提案したのは「営業マン100人アンケート」であり、それだけでは不足だと判断した編集幹部は営業マンのルポ記事をネタの中心に据えることにした。われわれには、営業マンというもっとも大きなマーケットを狙った記事は必ずウケるという確信があった。当たってマジで嬉しかった。
次に思い出深いのは、8月号の
「金融恐慌・前夜」 住専・不良債権処理のための「公的資金」導入の条件を問う
である。詳細は1995年 ぼくはこんな記事をつくってしまったに譲るが、苦しくても頑張って取材して問題の核心にじりじりと近づいていけば、必ずスクープネタに突き当たることができることを体得することができた。この経験は何より貴重である。
12月には大蔵省が住専会社への6850億円の公的資金導入を発表し、この是非を問う記事を急遽作成した
それと、それまで出てこなかった鈴木敏文のインタビューを取ったのは悪くなかったと思う。同じ1996年2月号の
「緩和」では生ぬるい!「規制破壊」こそが日本を救う 中条潮
は、B&Bの11月定例会のテープ起こしを元にして作ってしまった記事である。
社内をLANでつなぐことが決定したので、5月にパソコンを購入し、会社の机の上に鎮座させた。
このパソコンはゲームとNOTESを使った社内連絡用にしか使わなかったが、社内でもパソコンのある者が少ないのであまり盛り上がらなかった。専ら校了期に暇つぶしのゲームをするのに使っていたように思う。というのも当時は組版にIPSを使っていたため、オペレーターが二人しかいないことが作業上のネックとなってどんなに早くゲラを処理しても膨大な待機時間を要求されたのである。私はこれには大いに不満であったが、ゲームで多少は気がまぎれた。
この後のITの導入であるが、1996年の初夏には自宅用のノートパソコンを買い、ニフティに加入して電子メールが使えるようになった。これはかなり仕事に役に立った。パソコンは偉大だと思った。ほぼ同時期にB&Bのコアメンバーにファースト・クラスという専用通信ソフトを配布し、クローズドの通信ネットワークを確保した。これは外国とでもチャットができて便利だった。しかし1998年初にはプロバイダーの機密保持上の理由でダイヤルアップ接続ができなくなったので、メーリングリストに移行した。
Eメールはネットワーキング活動における連絡事務を革命的なまでに簡便にした。会合の案内は徐々にハガキからEメールに移行していった。
B&Bについては、私の中ではっきりした壁に突き当たっていた。勉強会を始めた頃は参加者が確保できるかに大変心労したものである。会場の関係から30人は集まらなければ様にならないし、赤字になってしまう。われわれの運営方針は勉強会毎に黒字にすることだった。しかし、会の名前を潰すようにアホは一人たりとも入れることができない。
1993年には放っておいても40名程度の参加者は集まるようになっていた。名簿は200人を上限とすることにし、当方があまり参加を望まない人と参加率の悪い人をどんどん削っていった。
こうして経営は安定したものの、私としてはみんなが何に興味を持っているのか汲み取ることができないことが苦痛になっていた。勉強会も媒体の一種であると思う。しかも雑誌よりもダイレクトに聴衆の反応が伝わってくる。そこで私としてはなるべく同世代の人たちが切実に希求している情報を提供したい。ところが、そのニーズをつかむことができない。声も挙がってこない。そうするとたんに私が「ボクはこんな有名人も知ってるんだよ、すごいでしょう」と一人で悦にいっているという絵になってしまう。これではなんの意味もない。
そこで定例会の頻度を落とし、参加者全員が議論に参加できるように、またコアメンバーの参加意欲を一層高めるために、1994年から小会合も並行して開催するようになった。場所は某鉄鋼メーカーの本社にあるたいそう立派な会議室を使わせていただいた。
Bilateral B&B Study Groupも並行して活動していたが、管理運営はすべて人に任せていた。
9月末に、夏休みを使って北欧に旅行した。まったく気ままな一人旅で、命の洗濯をした。