アウトサイダーが来ないと企業行動は変わらない
織田 聡氏
運営者 共同体に対して忠孝を一致させれば、共同体と自分を一体化させることができるわけです。僕は明治維新のときに、日本はこれをやってしまったと思うんですね。
それで僕は、さっき織田さんがおっしゃった論理やセオリーで、日本企業の中をどんどん切っていけば、もっとビジネスは合理的にできるようになるのではないのかと思っているんです。
不合理を排してコストを下げることができるし、戦略的に動いてもっと儲かるようになると思うんですね。
ところが、それを妨げるものとしての、そういった儒教意識、共同体意識、ぶら下がり志向が存在します。旧日本人はあからさまに嫌がりますからね。「よけいなことをしやがって」と。なぜかというと、彼らは共同体と自分を一体化しているので、共同体を変えられたら、身を切るような痛みを感じるからですよ。アイデンティティ・クライシスなんです。
そこの乖離をなんとか詰めることができないだろうかというのが、大問題なんですけどね。
織田 やっぱり組織の中に、異文化をどんどん混入しなければダメですよね。
例えば外部から人を積極的に採用する。それもいろんな所に分散させたらだめで、一カ所に集積させてひとつの社内勢力にすることが大切だと思います。組織にアウトサイダーが入ってこないと、企業行動は変わらないんです。ベンチャーはなかなか日本では育ちづらいので、やっぱり外資系に期待するしかないのかなと思います。アウトサイダーという意味では。
つまり、その会社に元からいる人たちの手による内部改革というのはなかなか難しいんです。これは、三島由紀夫についての「ペルソナ」の概念で、個人の感覚、あるいは信条にかかわらず、組織として期待されている役割が個々人にそれぞれあって、みんなそれには忠実なわけです。だから「これはまずいな」「変えなければならないな」と思ってはいても、以前の延長で行動をしてしまうわけですから。
運営者 本来は、もっと広い目でモノを見ていれば、「自分が本当にこの組織に役に立つためには、このように変わらなければならないのではないだろうか」「これが自分の役割なのではないだろうか」ということを看取しなければならないし、それができないのは不勉強だと僕は思いますが。
織田 組織はある意味、組織としての使命を構成員に強制するのです。それがなければ、組織とは呼べないわけで、「本当は、この人見逃してあげたいけれど、捕まえなければ警察という組織が成り立たない」というのと同様ですよ。
運営者 鏡花の『義血侠血』みたいな話ですな。
織田 だからある意味それは仕方がないことで、むしろ組織と組織の間を人が移動していくことができないのが根本的な問題だと思うんです。
運営者 社会の流動性がないことは大きな問題のひとつでしょうね。