哲学は死んだか
織田 聡氏
織田 「そしてその真上には天皇がいて、人々を見下ろしている、臣民は見守られている」というフィクションですね。
運営者 そういう世界観ですよ。旧日本人はそのように世界を作っておいて、自分は目の前の仕事だけを見つめている。
織田 鳥瞰図を持とうとしないのです。
運営者 普通の中間管理職はそういう価値観、世界観を持っていて、そういう視界の範囲で生きている。
したがって判断力も磨いていなければ危機感もなければ、自ら新しいものをつくるとか変革するなどということは夢にも思わないということなんですね。
織田 日本において、哲学教育が廃れたのはいつごろからなんですかね。
運営者 教養主義が終わったのは、70年代の末だと思うんですけれど、哲学はもっと前に廃れてるんじゃないでしょうか。「ニューアカ」には意味があったのかどうか、よくわかりませんね。
ぼくは早稲田の哲学研究会に籍を置いていてカントの認識論とか、現象学とか教えてもらってましたけど、弱小勢力でしたよ。せいぜい20人くらいしかいなかったんじゃないかな。セクトや宗教系サークルが「哲研」の看板を狙ってましたが、4年ほど前に部室を訪ねたらまだ人がいたので、細々と続いてるみたいですよ。
織田 旧制高校が終わってからでしょうかね。
なぜこういうことを言ったかというと、本質を突き詰めていくと、哲学になると思うんです。保護を受けない個人として生きる意味を考えさせる社会的な仕組みというか、力が日本からなくなっちゃったんじゃないかなと思うんですよ。
つまり関係性の中でしか生きることができないようになってしまったんじゃないのかなぁと。
運営者 だけど、日本人は信念を持たず、他人との関係性によってのみ自らを規定するというのは、昔からそうだったんですよ。
「近代日本が封建社会から受け継いだもっとも大きな遺産の一つ。自由な主体的意識が存在せず、各人が行動の制約を自らの良心の内にもたないで、より上級のものの存在によって規定されているため、独裁観念に代わって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。
上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲していくことによって全体のバランスが維持されている体系」(丸山真男『超国家主義の論理と心理』)
これって、さっきの軍人のシゴキにも通底しているように思えますね。抑圧自体が目的であって、議論の余地なんかないということですよ。
織田 日本における哲学というのは、あくまでも文明開化以降の輸入ものであったということですか。
運営者 僕は根づいていなかったと思いますね。