組織の防護壁が個人の覚醒を遅らせている
織田 聡氏
織田 日本における哲学というのは、あくまでも文明開化以降の輸入ものであったということですか。
運営者 僕は根づいていなかったと思いますね。
織田 旧制高校に行ったような一部の、トップ数%の人間のたしなみであったと。
運営者 学問としては存在していたけど、それが庶民のものになっていたかというと、それは違うと思うんです。この国では、共同体の中でどこに位置を占めるかという関係性原理だけ把握していれば、「いかに生くべきか」は必要ないですから。
西洋の人たちと日本人の哲学の間には乖離があって、それは何かというと、「自らの存在は何なのか」ということを問い直す習慣が日本人にはないと思うんですよ。それを考えなくてすむ。
「自分は何か」という疑問が浮かべば、「他人と同じようなものだ」という考え方で納得ができるわけですからね。「オー・マイ・ガッ」とか「ジーザス」とか言わないわけですよ日本人は。
あの感嘆詞は、常に自分と神との関係を問い直し続けているわけですから。これはちょっと凄いと思いますね。
日本人が哲学を必要としないのは、共同体の中にいれば安心できるからだと思いますよ。「神は死んだ!」と言われても、SO WHAT?なんですよ。
ルネサンスでやったのは、神からの「自由意思」の獲得なんです。われわれが共同体に縛られているように、彼らは個人の中にいる神に縛られているんでしょう。
織田 変革期には、組織の防護壁の存在自体が個人の覚醒を遅らせるから、防護壁を崩すのがリーダーの役割になるのかもしれませんね。
運営者 ただし組織の防護壁というのは、個人が組織と一体化している共同体では個人の精神の防護壁と共用なので、それをつき崩してしまうということは本人の精神的な安定も失われてしまうということになるんです。
だから、リーダーが「組織の防護壁を崩せ」と言うのは脅威に感じるはずですよ。そしてひょっとすると構成員はテロリストに変身して、リーダーを狙い始めるかもしれません。
織田 本来は共同体に安寧をもたらさないとならない村長が、秩序の破壊者になってしまうということですね。
ということは、ある意味で平時から免疫をつくっておくことが大切なんでしょう。あるいは平素から防護壁を低しておくんでしょうね。
運営者 防護壁とかセーフティーネットというのは、最低限にしておくべきなんですよ。
織田 最低限にして、常時変化が起こるという状況に構成員を置いていれば、常に変化しやすくなるでしょう。
運営者 汐留とか品川とかの高いビルの上にいたら、社員は「自分は高い防護壁に守られている」と思うでしょうね。給料は寝ていても入ってきて、フリンジベネフィットはいっぱいあって、自ら防護壁に守られているという意識があって、そこでぬくぬくととしていたら・・・。