中立性を補完する記事の「5者評価」
三神 公共性とは何かという難しい問題もあります。「公共のために」と言ってはいますが、メディアは自分の売り上げのために働かざるを得ないビジネスモデルになっているのが現実です。ただし、これはやはりスポンサーの分散度を高めるのが現実的な線なのかもしれません。
運営者 実際はね。一般的な前提としては、憲法に書いてある「公共の福祉」というのがあって、「それが何なのかわからないけれど、おそらくそのようなものがあるのだろう」という価値観に基づいているわけです。だから公共性と言ったらそこからは切り込んで考えませんよ。
中立についてもそうですよ。「中立が不可能である」というのは実際そうだと思うし。なぜならメディアというのは編集権を持っているわけで、編集権を行使するには観点が必要であって、それは客観中立公平という概念とは相いれない概念なわけです。
だから「公平って何、中立って何?」と改めて聞かれると、語る言葉がないんですよ。
三神 そういう視点レベルでは根っこの要素が整理体系化されていませんよね。案件ごとの行動規範としては、コンセンサスはあると思うんですが。例えば癒着防止。ジャーナリストと名乗っている人間が企業広告に出てはいけない、といった営利企業との距離の置き方。講演依頼を自治体から受けたら、首長選挙から日数がどの程度離れているかといった政治からの距離の置き方。このあたりはまた詳細を後に譲りましょうか。
視点の中立性を補完するやり方として、今は記事の評価を、「どれだけ読まれたか」というボリュームで計りつつ、寄せられる賛否をモニターとして契約している読者や視聴者からの定期的な意見や、一般読者から任意に寄せられる反響から推察する方法をとっています。これは評判モデルに近いですよね。
だけど視聴率に対して視聴「質」という考え方が出てきたように、その記事を専門家たちがどのように評価したかという権威モデルの一部を取り入れることも考えられます。
もう少し細分化していきますと、
専門分野の人たち
読者の中でもその分野の記事を読み込んでいる人、或いはその媒体のヘビーユーザー
ほとんど関心を持っていない一般の人
同じような分野を取材している同業者
取材された人自身
という5人が、それぞれの立場から取材品質を見るという評価もできます。そういった立場を分散させて5者評価をやるという基準が考えられます。コストがかかりますし、実効性の確保が非常に難しくはあるのですが、事業会社の人事評価で使われている360度評価に少し似た発想ですね。
もちろんたったひとりに受け入れられる記事があってもいいと思うのですが、社会的な総合評価としてどのような人たちにどのように認められるものを発信しているのか、フラット化している社会で、情報環境のガバナンスを担うハブとしての信頼性を担保することが公共性だとすれば、ラウンドテーブルとして機能していることを情報の信頼性の判断軸に置く、こうした評価法もありえるかと。
運営者 なるほどねー、なんだかオリンピック競技の採点方法みたいですね。