責任範囲とワークフローがプロのメディアの信頼性の証
三神 組織構造と人事制度的なところで言いますと、今は直属の上司の心証という一方向で記者評価が決まっているところがあって、専門性の弱い人が異動で上司に来ると記者にとって不本意なところで記事をいじられてしまって、途端に伝えたいことが通じなくなったり適切ではない取材先にコメントをとってくるように言われたり、ということが生じてしまうようですね。
それに、ピラミッド型の組織で、対権力という構造の中では、どうしても業界内の「抜いた、抜かれた」が評価の軸になってしまう。スクープや速報の重要性はもちろん、存在していていいと思います。しかしアマチュア・メディアも無差別大量に情報発信するメディア環境、専門領域が細分化して全体像が見えづらくなっている情報環境で、メディア・ガバナンスを担うのがプロフェッショナル・メディアの専門性で、強化していくひとつの方向性ではないか。そんな意見は若手のメディア人の間でも耳にします。
運営者 上司によっては、ねつ造も平気ですからね。若手の記事に自分で手を入れて根拠のない話を作っちゃうんですよ。
三神 あとはさっきお話しした、「ここまでは自分で責任を負いますよ」という範囲の問題になるんですけれど、一般の人から見るとメディアに書かれていることが品質を担保するためにどれだけコストがかかっているかはわからないですね。
たとえば新書の校閲ひとつとっても、これはある出版社の数字ですが90万円程度という金額がかかっています。岩波書店の広辞苑になると校閲者の名前まで巻末に掲載されています。誰がこの辞書の信頼性を担保したのか、クレジットがきちんと入っている。
運営者 へー、広辞苑は校閲者の名前まで載せてるとは知りませんでした。新書の著者に支払われる初版印税は80万円程度ですよ。ということは、校閲にはすごいコストがかかるということです。他業種から新規参入した出版業者は校閲をぜんぜんやっていないところもあるみたいですからね。ぼくもやっぱり、最初の本は文春か新潮にしようと思っていたわけですが、大きな理由は校閲がしっかりしているからですよ。新潮の校閲部はスゴイ。
三神 そうした品質を担保するためにどれだけの人がかかわったのかを示す顕名、責任範囲とワークフローの発想が、プロ度を示す道でもあると思うんですね。
これが映像になるとかなり複雑になってしまって課題が多いんですけれど、映画の後ろに流れるクレジットは細かすぎるんじゃないかと思うほどわかりやすい例ですね。その音楽を選んだのは? CGでその色味を加工したのは?俳優のスケジュール管理をしたのは?などなど。