「ショック性」はニュースバリューじゃない
三神 ダミアン・ハーストというコンテンポラリー・アーティストを売り出したアート・ディーラーの英国人がいるんですが。
運営者 あの牛を輪切りにして展示した芸術家ですね。
三神 この人は元広告マンで、とにかくメディアにアーティストを取材させる手腕に長けていたんです。彼の手法が「ショック・メイキング」と表現されたことがありまして、メディアが飛び付きやすいようなショッキングな作品ばかりつくらせるわけです。
たとえば児童連続殺人犯の顔を子供の手形で作らせるとか。絵的にショッキングで見出しに事件性があって、という仕掛け方です。メディアが騒ぎ、叩きやすいパターンを次々打ち出していきまして。ニュースバリューとショック性をメディア自身が混同していることを証明した皮肉な事例といっていいかもしれません。
運営者 おもしろい。つまりね、「なぜその取材対象を取り上げるのか」という問題は、なぜやらせや捏造をやるのかという問題とつながってるんですよ。
メディアの中にも「事実をきちんと伝えるべきだ」ということに必ずしも固執していない人がいるわけです。「面白くなければならない」という思い込んでる人がいます。「面白いオチをつけるためには事実を曲げたり捏造してもまったく構わないんだ、むしろそれが受け手から要請されていることなのだ」と思い込んで、自分がニュースを作ってしまうことに抵抗感がない人がかなり多いです。
三神 ニュースバリューという言葉の意味を昔、複数の編集者や記者に聞いたことがあります。
「驚きがあること」「珍しいこと」という答えが大半でした。個人的には今もこれは腑に落ちていません。娯楽との違いについては後に譲りますが、娯楽の主軸は感情の刺激であっていい。事実情報の主軸は、ガバナンスを担う機能を前提とするなら、感情を刺激する度合いが最優先になってはいけません。受け手が意思決定をするのに必要な情報、リスクを減らす情報かどうかが主軸になるからです。「ショック性」は感情の刺激という娯楽コンテンツにおける主軸であって、ニュースバリューとの混同は避けるべきではないかと。
運営者 「楽しくなければテレビじゃない」は、かなり危険なキャッチフレーズですよ。
三神 情報信頼性とメディア・ガバナンスの観点では、ニュースバリューの意味には二つの方向性があると思うんですね。
ひとつはそもそも社会への影響力が大きいもの。
もうひとつは社会における問題解決性があるもの。
社会への影響力が大きいものと、「ショック性」がおそらく、現在は混同されているんだと思います。「社会の問題に対して解決策を与えているかどうか」といった基準で取材対象を選び情報を精査して報じているのであれば、その情報はショック性がなくてもニュース性がある。
ニュースバリューは、ショック性の高い事象を追いかけて得られる面もなくはないですが、むしろガバナンスの観点では、メディアがプロとして発掘し設計し構築するものになっていくのではないかと思っています。
運営者 それはとっても正しい認識だと思います。なかなかできてないですけどね。大変ですから。だけどそれをやるのが楽しいんです。
「ニュースバリューをプロとして発掘し設計し構築する」という意識を持つ人が、ホンモノのジャーナリストですよ。つまりそれはジャーナリストの要件なんです。その意識のないヤツは、ジャーナリストじゃない。
三神 だけどそうしたワークフローを飛ばして、誰かに聞いてきた取材対象をどう面白く刺激的に見せるかというところだけで頑張って情報の受け手に届ようとする歪んだ競争が起こっている面も実際にはあるんですね。これもまた取り上げられる側からすると信用できない、という悪循環になる一因です。だけどあくまで編集権はメディア側にあるわけで、ここに説得性が出るためには、なぜその人に取材するのかというスクリーニングがきちんとなされている必要がある。
ショック・メイク的手法で娯楽に擦り寄った手法で面白おかしく加工されてしまうと、プロ度の高い人ほどメディアに出たくないな、と思ってしまう。
運営者 そういえば、そういう人のところに行った時に「御社にもあなたのようなまともな人がいるんだ」と何回か言われたことがありますよ(笑)。