「イギリス経験論」vs「大陸合理論」
三ツ谷 ドイツでも日本でも、この社会の弱さというのは結局誰か一人がすべてのデザインを描いて、それを浸透させることが可能で、相互チェックが効かないような国であるということにあるのではないでしょうか。これはあくまで僕の考えなのですが、アングロサクソンとドイツのどこが違うのかと考えると、アングロサクソンは社会思想的な言い方でいうと「経験論」です。大陸の場合は「合理論」ですよね。経験論の場合に非常に重要なところは、「生成」の概念なんです。西洋近代の前提として、両方とも神の意思を顕現させたいというところがあるのだと思いますが、経験論の場合は神の意志が静的なある切り取った瞬間に存在するのではなく、時の移り変わりの中で神の意志が表出されてくる、その流れというのは常に生成的であるという考え方があるのです。
運営者 何かが起こる度にその結果をフィードバックしていって、結論にたどり着くというような態度ですね。
三ツ谷 ええ、それでしかもそれは分散化されていて、「一人ひとりが絶対ではない」というところから生まれてくるのです。一人ひとりが神に近づけるものなんてたかが知れている、だけど一人ひとりが持っている体化された神の意志を、なんらかの機構で統合し集約することによって神に近づくことができる。つまり、絶対的な個人というものは考えられないわけです。だから彼らは市場を中心に据えたのだと思います。
反対にマルクスみたいな合理論的な考え方というのは、結局神がすべてを設計しているわけです。デカルトのコギト・エルゴ・スムは、分割していって結局最後に分割できないものとしての私自身にたどり着いて、その分割できない私が世界を分析して再構築をし、しかもその原理を発見できるならばその原理に従った形で社会を設計できるかもしれないというところがありますよね。
運営者 それが合理論のスタート地点ですね。
三ツ谷 マルクス主義にしてもそうなのですが、「世界は作れる物である」と考えています。作れると考えた時に、「では結局だれがつくるのか」というと、そこには民主的な合理性というものがなくて、偉大なひとりの個人の思想の中で結局デザインが描かれて、そのまま行ってしまうという恐怖があるわけです。
運営者 なぜそれが恐怖かというと、分散しながら検証しデザインしていくというやり方の方が、失敗の可能性が低いからでしょうね。
三ツ谷 と思います。
もうひとつは、ここも西洋近代とは何かを考えるときに微妙な議論だと思いますが、「個人というものが素晴らしい」、「一人ひとりが自由に生きていくというのは素晴らしいよね」ということがあると思います。
そこには、一人一人の個人は神を顕現しているのであって、そこにはお互い侵すことのできない神聖な領域があるということも含んでいます。「個人が個人としての幸せを追求することを止められる人はだれもいない」ということをを肯定したときに、それは素晴らしい理念だと思うんです。
運営者 それこそがフランス人権宣言の精神です。
三ツ谷 ところが一人が何かをデザインするということになると、日本の会社だけではなくて共産党でも創価学会でもそうなのですが、だれか「天皇」と呼ばれるような最終的な決定権者が組織の要請として出てきてしまうでしょう。
運営者 組織の要請として独裁的な統治者が出てくるんですね。
三ツ谷 結局そういう形で誰かがデザインしていかなければ組織が動かないわけです。そういう機構なんだと思うんですよ。そうした仕組みから弾かれた人たちは非常に不自由な思いをしながら暮らしていかざるをえないということになるわけです。
運営者 面白い。深い考察だと思います。気がつきませんでした。