今はじめて要請される「近代人の誕生」
三ツ谷 ただ、私自身一方で、人本主義の考え方が理解できないわけではないのです。
「会社の中に入ってトップの椅子を目指したいと望む自分」というのは自覚することができます。あるいは会社という機構が好きで、「会社のためなら死ねる」という強烈な意識が自分の中にもあるわけです。大江健三郎の小説で、「ナセルの軍に加わりたいと熱望した」というような美しい情念表出の文章を記憶してますが、私も例えば唐突ですけど、上杉謙信みたいな或る種高潔な軍神のような武将の侍大将としてなら、戦場で闘いそこで死んでも本望のような気がする訳です。「霜は軍営に満ち」、なんてきりきりと美しいじゃないですか。その意味では私も近代人ではない、近代人の意識ではない訳です。
私は、いま日本が突きつけられている課題は、「近代」だと思うんです。夏目漱石とか森鴎外が苦闘した近代との格闘がまだ終わっていなくて、実はその処理は、われわれの世代が今から答を見つけていく最初の世代になるのかもしれないなという気がするんです。
それはなぜかというと、日本が本当の意味での資本主義社会に生まれ変わるために何が必要なのかという議論と繋がっていると思います。
まず個人が確立することが必要だと思います。今まで個人がいたかというと、実は目覚めた人はいたかもしれませんが、本当の意味で社会が近代的な個人を産む機構になっていたかというと、実はそうは動いていなかった。ところが今ははじめてそのような方向で動いている。企業という家が壊れて、みんなが外に投げ出される。信頼していった共同体が潰れてしまって既にない。そこではじめて「じゃあ自分は何をしなければならないのか」とか、「自分とはいったい何なのか」とか、50歳になって会社が潰れたときにはじめて、「自分にとってカイシャとは何だったのか」ということを深刻に考えなければならない人々が出てきたわけです。
これは何かというと、「俺は何であったんだろう」「俺の人生はいったい何だったんだろう」というところに必ず向き合うはずです。そこで内面化する自分がはじめて出てきた時に、「じゃあ自分はどうするのか」と考え始めるわけであって、これが近代人の誕生であり、近代の要請されるところだと思うんです。
運営者 そうかあ。
三ツ谷 個人になることによってはじめて向き合う自分というのが出てきます。つまり今までは自分じゃないんです。例えば「私は山一の○○です」とか、「野村の○○です」という自分がいただけであって、それは仮面をつけて生きているわけです。
要は本当に会社から放り出されて、自分の名前だけの名刺を持ったときに、やっとそういう局面に立ち至るのです。日本の社会は今まですべての人間を守ってきました。でももう守れない。ここで初めて近代になるかならないかという問題に直面するのだと思います。
しかし、「近代にならない」という選択もまたあるわけです。
運営者 うん、選択肢としては排除されるべきものではないと思います。しかしまあ、またもや「近代の超克」の議論ですねえ。