いかにして「資本主義」を超克するか
三ツ谷 しかし、「近代にならない」という選択もまたあるわけです。
運営者 うん、選択肢としては排除されるべきものではないと思います。しかしまあ、またもや「近代の超克」の議論ですねえ。
三ツ谷 石原慎太郎という人物は優れた人だと思いますが、その彼に対する人気が危険なのは、日本という一つの幻想、物語でもう一度みんなの意識を括り直すことができるわけです。
「私は何なのか」という問いに対して、ヨーロッパに対してであろうと、アジアに対してであろうと、誰に向かってであろうと「私は私だ」という自己紹介ができる立場と、「私は日本人の○○です」という自己紹介をするか、大きな分かれ目だと思いますよ。
運営者 日本人は大概、"WE JAPANESE ~"って言っちゃいますからね。
三ツ谷 そこまで考えた時に、アメリカも今ひとつの過渡期にあると思われます。つまりアメリカという一つの物語でみんなの意識をくくって、競争市場の中で勝てなかった人たちを過ごしやすくするという装置がアメリカにはあるわけです。でも、Born in the USAのスプリングスティーンがなくなっていかないと、実は本当の意味での近代ではあり得ない。そういうことが問われているんだと思います。
運営者 市場はナショナリティすら越えていくと。
三ツ谷 それが西欧近代がわれわれに最終的に課しているものであって、そこが試されているんだと思います。
もっと大きな議論をすると、「西欧近代は間違っていた」という議論だってあり得るわけです。共同体のある種の円環的な時間の中で、何の理念も追いかけず生存だけが保証されているという、生きて子供を作り同じような生き方が繰り返されていくという、小さな枠の中で生きて死ぬことがなぜいけないのか……。
ただ西洋近代は結局そこで、直線的に走らざるを得なかったのだと思います。それはキリスト教の問題と密接に関係していると思うのですが、神の王国をつくらなければならないとか、自分が救われるという証明をもらうためには徹底的に働かなければならない、そういう確信が自ら持てなければ救いに至らないというプロテスタントの考え方とか、そういうものがあったので走り始めたのでしょう。ただ走り始めてしまうと資本主義の機構というのは圧倒的に強いので、すべての他の社会を巻き込んで拡大をしていって、その中に「資本を自己増殖させる」というDNAが盲目的にインプットされているわけですから、これからも限りなく増殖していくはずです。その行き着く先は、その社会の全員を個人にバラバラに還元するまでは必ず運動をし続けるはずだと思うんです。モナド資本主義ですね。
そこまできた時に西洋の人たちの中には神に巡り会う人もいるのかもしれません。だけど我々、日本人が神に巡り合うかというと巡り合わないじゃないですか。自分を振り返ると、私には無理だと思うんです。
ここまで来たときに「本当のポストモダンとは何か」という理解が試されて、西洋近代のこんな枠組みは越えてしまおうというという思考の流れに行く人たちが出てくるでしょう。しかしそれとは反対に、先祖返りをしてしまって、例えば国家というような大きなロマンに立ち返ってしまうような人たちに分化してしまってしまうのではないかと思います。
運営者 資本主義が行きつくところまで行って、個人個人をバラバラにしてしまうところまで行ってしまうと。そこで出てくるのは何かというと、多分『ツァラトストラはかく語りき』や「2001年宇宙の旅」に出てくるようなスターチャイルドですよ。
各人が覚醒することによって従来の個人を超えた、一段階上の存在になるということでしょう。そういう世界かと思うんです。駱駝、獅子、赤ん坊……この精神の変遷はギリシャの哲学者が書いたものをニーチェがパクってるんですけど。
三ツ谷 新しい統合の仕方とか、新しい歴史観やビジョンといったものが語られるようになるでしょうね。