社会主義国ニッポンの一側面
運営者 じゃあそれであれば、資産を持っている人は市場主義に与することができそうだなと思います。そうするといざというときにはそれに反することを考えて持たざる側の人々にアピールし、団結させる勢力が出てくるのでしょうが、だけど果たして彼らがそうした反市場主義的な行動に経済合理性があると考えるかどうかというと、そこまでバカじゃないんじゃないかなという感じがするんですけど。
三ツ谷 ひとつは日本の特殊性の問題があると思います。日本の金持ちというのは、多くが国による所得の再分配の恩恵に預かる形でお金を蓄積した人ではないでしょうか。フローを彼らがどうやって得ているかというと、この巨大な再分配機構の中で得ているわけです。改革によってフローを得ることをやめてストックを回転させて暮らしていくということを取るか、それとも改革をせずにフローの収入をもらい続けるかというのが悩ましいところではないですかね。
運営者 「構造改革で田舎の土建屋の仕事は切ってしまうので、あとは今まで貯めたストックでなんとかやってくださいね」ということですね。そうするとボスはそれでも食べていけるかもしれないけど、ほかの連中はフローが入ってこなくなってとたんに干上がってしまうことになるでしょうね。
三ツ谷 そもそもがフローで成り立っている構造であって、ボスの方もその仕組みの中で子分が暮らせなくなったらボスでなくなってしまうわけですから。
運営者 そういう構造は資本主義的ではないですよね。
三ツ谷 全然違いますね。市場における交換の議論ではなくて、国家による再分配の議論をしているわけですから。
運営者 とすると、日本の資本市場は大きいと思っていたのですが、市場の広がり具合は実は少ないわけですね。
三ツ谷 資本市場の図体はでかいのですが、限定されていたのでしょうね。株式市場はばくち場であったし、国債とか債権というのは非常に統制されたある種の間接金融であったと思うんです。
それにバブルの時に、多くの企業が増資をしましたが、その増資分を誰が買ったかというと銀行が買った部分が大きいんです。銀行が買ったということはどういうことかというと、形を変えた融資をしているということになるでしょう。企業の側から見れば株主としての支配権が銀行に出てくるということになるのですが、しかし今までのような融資で役員を送り込まれたり、のど元を押さえられるようなところから比べれば株式で資本を得るということはまだましであるということが言えるでしょう。銀行からの融資だと使い道がかなり極端に決められてますからね。増資の目論見書には資金の使途は書いていますが、引き受ける証券会社としてみれば株は売ってしまうわけですから自分が資金の出し手というわけではないので、その意味ではチェックは甘いわけです。しかも株主は分散しているがために発言権が弱い。ということで、だれもチェックをしないお金を発行会社は手に入れることができたという構図だったわけです。
銀行にしてみれば、ダブダブに余ったお金を吸収できて、かつ株主としての発言権も多少できるんであればいいかなあという判断で出資に応じたのでしょう。
運営者 それが今では立派な含み損になっているというわけですね。
三ツ谷 企業の側では増資で得た金を過剰な設備投資に回して収益力を削いでしまったわけです。