ヴェルディは、生涯シェイクスピアを愛読していたそうで、オペラ台本の原作としての相性もいいようです。
音楽は素晴らしいが台本はひどい、という作品も数ある中で、初期の《マクベス》と晩年の《オテッロ》はどちらも傑作で、いってみれば、250年の時を隔てたふたりの天才のコラボレーションというべきもの。劇場作品として原作のストレートプレイを上回るインパクトを持っているように私には思えます。
台本まで自分で作らざるを得なかったワーグナーに比べると、よりなまなましく緊密に普遍的な人間性の本質に迫るレベルの高いドラマトゥルギーを達成できているといえましょう。特に《オテッロ》の方は、オペラ台本をもうひとりの天才アッリーゴ・ボーイトが手掛けているため、より完成度の高い劇場作品となっていますが、ピアーヴェの台本による《マクベス》も決して捨てたものではありません。
その《マクベス》を、あのペーター・コンヴィチュニーが演出し、昨年2月には本場顔負けの《ナブッコ》を聴かせてくれた東京二期会が演るのですから、期待はいやがうえにも高まりました。
指揮:アレクダンドル・ヴェデルニコフ 東京交響楽団
演出:ペーター・コンヴィチュニー
装置:ヨルク・コスドルフ
照明:喜多村貴
マクベス:今井俊介
マクベス夫人:石上朋美
マクダフ:松村秀行
バンコ:斉木健詞
マルコム:新海康仁
侍女:森田雅美
伝令・刺客・医者:小田川哲也
結果は、はっきりいってがっかりでした。
題名役の今井俊介は、中音域は響きはしっかりしていてそれなりに健闘していたとは思うのですが、演技に気をとられ過ぎていたのでしょうか、音程が不安定で全体に上ずり気味であったうえ、ヴェルディ・バリトンにとって大事な高音の輝かしさ、力強さが足りません。
特に、唯一のアリアというべき最終幕の<Pieta, rispetto, amore…É(憐みも、尊敬も、愛も…É)>の聴かせどころでFの音がきちんと響かないようでは困ります。その演奏のあとに場内からブラヴォーの声がかかったのはご愛嬌というべきか。皮肉でなければ、少なくともヴェルディの音楽の素晴らしさが聴衆に伝わったということなのでしょう。
初日に登場した板波利加であれば、おそらくもっとドラマティックな声が聴けたのでしょうが、この日のマクベス夫人、石上朋美はあまりにも「可愛い系」の美声すぎました。
まさに、初演から2年後のナポリ公演の時にヴェルディ自身が書簡の中でマクベス夫人の声にはふわさわしくないと懸念した「タドリーニ夫人の天使のように清冽な美声」というのがあてはまってしまうのです。響きがよく、演技力をともなった鋭い表現もできているので、文句をつけるのは気の毒かもしれませんが、声質そのものがミスマッチといわざるを得ません。
コンヴィチュニー演出のマクベス夫人像は、醜い野心を体現した女というよりは、ファム・ファタール風の色気のある悪女を志向しているようなので、「美声」であっても構わない、とは考えられます。もしかしたら、「天使の声」で悪を語らせるのも面白い、とプロデューサーは考えたのかもしれません。
もうひとりの主役というべき魔女たち。これが一番問題でした。おそらく、コンヴィチュニーが要求する演技が彼女たちには難しすぎたのでしょう。芝居をするのに一生懸命でちっとも声が出ていないように思えました。あるいは、歌手たちひとりひとりはきちんと声を出していたのですが、その数が少なかったのかもしれません。
歌うシーン以外にも魔女たちを活躍させる方法は、グレアム・ヴィック、ヘニング・ブロックハウス、野田秀樹、ピエル=ルイジ・ピッツィなど、私がこれまで観てきた名だたる《マクベス》の演出にも共通するもので、今や珍しいものではありません。
この場合、コーラスと同じ衣裳を着せたダンサーやマイムの役者を参加させ、コーラスの歌手たちへの負担を減らす工夫がされます。今回の公演でも、プログラムを見ると、男性、女性のスーパーの名前がかなり掲載されているので、同じ手法をとったものと思われますが、見た目、魔女たちの数は、通常の女声三部合唱の数と変わらないか、むしろ少ないものでした。
全員が歌っているように見えたのですが、高いところに登ったり、大きな動きをする魔女は口パクの役者だったのかもしれません。それでは音量が落ちてしまいます。演劇重視の結果、音楽が犠牲にされた形になってしまったようです。
歌手の中では、マクダフの松村英行とバンコーの斉木健詞が、それぞれ役にふさわしい声と様式感を持っていて、好演だったと思います。特に松村は、昨年の《ナブッコ》でも強い印象を受けました。貴重なスピント系テノールとして期待が持てます。
コンヴィチュニーの大胆な読み替え演出は、単なる奇をてらった思いつきではなく、スコアやテキストを丹念に読みこんだ緻密なもので、それなりの説得力はあるのですが、今回は、少し違うのではないか、と感じるところが多かったように思われます。
たとえば、第1幕のフィナーレ。ダンカン王殺害があきらかになったあとの場面は、コンチェルタートを得意とするヴェルディの作品の中でも際立って個性的で素晴らしい音楽がつけられています。
プログラム掲載の演出ノートでコンヴィチュニーは「その音楽は、王が殺されたという悲劇なのに、むしろワルツのようで、ここにヴェルディの皮肉がこめられていると考えられるのです。」と言い、実際に登場人物たちにワルツを踊らせるのです。この場面に「踊り」を感じ取るのは意表を突く面白い解釈ではありますが、それを視覚化することには私は賛同できません。強い感情表現を行う時に三拍子系のリズムを使うのはイタリアオペラの伝統的な手法であり、ヴェルディは皮肉をこめるつもりで作曲したのではないと思うのです。
オペラの歌詞には出てきませんが、シェークスピアの原作において重要な意味をもつ魔女たちのセリフに「Fair is foul, and foul is fair.」(小田島雄志訳:「いいは悪いで悪いはいい」)があります。この「fair」と「foul」という野球でもおなじみの英語は、多義的でとても訳しにくく、福田恒存訳、坪内逍遥訳、など訳者によって違う日本語が使われています。おそらくイタリア語でも一言で置き換えられる単語はないのでしょう。
ヴェルディ、マッフェイ、ピアーヴェのチームはこの台詞をとり入れることをあきらめ、その代わりに音楽全体で表現しようとしたのではないか、と私は思っています。
つまり、コンヴィチュニーがスコアから感じ取った「皮肉」とか「喜劇的な面」というのは、「Fair is foul, and foul is fair.」という混沌の表現であって、「当時、彼が置かれていた政治的、社会的な状況に対する強い抗議」などという薄っぺらな解釈に終わるのは、ヴェルディの深いシェークスピア理解に対する冒涜ではないか、と私は思うのです。
同様に、魔女たちをキーロールとして扱うのはよいとして、それをキッチンに集うホーム・コメディの道化たちのように視覚化し、ダンカン王をも道化にしてしまって、このドラマを悲劇のパロディに仕立ててしまったのは、鳴っている音楽との乖離があまりにも大きく、違和感が残る演出であったと感じました。
なお、今回の公演のプログラムは、コンヴィチュニーの演出ノートのほか、音楽評論家森岡実穂、翻訳家松岡和子、英文学者高橋宣也のレベルの高い文章が載っていて、装丁だけが豪華美麗で情報量の少ない来日公演の高価な冊子(たとえばフェニーチェ歌劇場来日公演のプログラム)に比べると、1,000円の値段にしては格段に読みごたえのある内容となっていました。