指揮:パオロ・カリニャーニ
演出:グレアム・ヴィック
美術・衣裳:ポール・ブラウン
証明:ヴォルフガング・ゲッペル
振付:ロン・ハウエル
合唱指揮:三澤洋史
ナブッコ:ルーチョ・ガッロ
アビガイッレ:マリアンネ・コルネッティ
ザッカーリア:コンスタンティン・ゴルニー
イズマエーレ:樋口達哉
フェネーナ:谷口睦美
アンナ:安藤赴美子
アブダッロ:内山信吾
ベルの祭司長:妻屋秀和
私は、今までにも、スカラ、ヴェローナ、METなどで《ナブッコ》の数多くの生公演を聴いていますが、今回の公演は、音楽的な面でいえばその中でも最高レベルのものであったと言えます。
「音楽的な面でいえば」とわざわざ断らなければならないのは、演出の面では、あまりにも伝統的なスタイルを逸脱していたので比較が難しい、ということがあるからです。その点については、後で述べることにしましょう。(これからこの公演を観るという人で「ネタバレ」は困ると考える方は後半の演出に関する感想は読まないようにしてください。)
4月19日のフェニーチェ劇場《オテッロ》、5月2日の東京二期会《マクベス》と最近東京で行われたヴェルディ作品の公演では、それぞれミケーリとコンヴィチュニーの「ユニークな」演出によって本来音楽がもつ力が減殺されてしまっていたように感じられました。それに対し、今回の公演では、「斬新な」ヴィック演出のもとであってもヴェルディの音楽の素晴らしさを堪能できたのは、ひとえに指揮者のカリニャーニの力量に負うところが大きかった、と思います。
パオロ・カリニャーニが指揮する《ナブッコ》を私は2011年11月にニューヨークでも聴いています。その時の私の感想では:「指揮者のカリニャーニは、スキンヘッドですが、わたせせいぞうの漫画に出てくる人物のようなやさしい顔をした青年で、ミラノ出身らしく都会的で洗練された雰囲気。音楽作りにもそうしたイメージがあり、とても巧みにテンポをルバートさせてオケや合唱を歌わせるのがうまいのですが、私の好みからいうと優美すぎて、この作品が持つ剛直で男性的なところが足りないように感じました。
見せ場の合唱、第3幕の<ゆけ、わが思いよ、黄金の翼にのって>でもテンポの揺らし方やフレージングの様式感は良いのですが、前半はもっと弱声からはいって後半に盛り上がるダイナミズムをきかせるといったあざとさがないので、少し物足りなく感じてしまうのです。」と書いていました。
しかしながら、今回の新国立の公演では、その時の「物足りなさ」がすっかり影をひそめ、荒々しい部分はしっかり荒々しく、実にメリハリの利いたダイナミックな演奏で、初期ヴェルディの血沸き肉躍る興奮を現出してくれていました。今回私の座席は2階L席というオケボックスを横から俯瞰する場所だったので、彼の指揮ぶりがよく見えました。きわめて的確なキュー出しで優美な振り方なのですが、煽り立てるところは煽り立て、熱のこもった指揮ぶりです。彼の棒に十全に応えた東フィルと新国立合唱団も素晴らしい演奏だったと思います。
題名役のガッロは、4月のフェニーチェ公演《オテッロ》(チョン・ミョンフン指揮)のヤーゴはイマイチの出来で、ヴェルディ・バリトンとしてはパワー不足を感じたのですが、この日は前半は王者の威厳と力強さ、後半は打ちのめされた老人の悲哀を、それぞれ十分に表現して持前のうまさを見せるとともに、声も十分に響いており、かなり満足のできる内容でした。
《オテッロ》の時とでは、オーチャード・ホールと新国立という箱の音響の違いということもあるのかもしれませんが、やはり大きかったのは指揮者の違いであったのではないかと思います。昔のカップッチッリやブルソンのようなバリトンであれば、指揮者が誰であろうと「俺は俺」という姿勢を貫いてそれなりに堂々たる歌唱を聴かせたものと思いますが、現代的な歌手はそれだけ指揮者に忠実なのかもしれません。
アビガイッレのコルネッティは、もともとメッゾ・ソプラノの歌手。私自身今までに、彼女が歌うアムネリス、エーボリ、アズチェーナを聴いたことがあります。今回公演のプログラムでもメッゾ・ソプラノと記載されています。ところが、アビガイッレは低音と重い声が必要とはいえ、明らかにソプラノの役です。高音が心配でした。しかし、それは杞憂に終わり、しっかり高音を響かせ、音程にも不安はありませんでした。アジリタの切れはイマイチであるものの、中音域以下はもともと立派ですし、スタイルや表現の面でも不足感はなく、非常に立派な歌唱だったと思います。幕後のカーテンコールで彼女が最も盛大な拍手を得たのも当然でありましょう。
なお、この手のヒロインに「見た目」も求めるのはもともと酷な話ですから、コルネッティの容姿については敢えて申し上げません。しかしながら、せめて旧約聖書時代の伝統的な衣裳であればもう少し隠すことができた体型が今回の衣裳では露わになってしまっており、気の毒でした。体重のせいで演技の面でもつらそうな身のこなしが散見されました。今回の演出をより効果的にするためには、多少声を犠牲にしてもスタイルの良い歌手を起用する手もあったかもしれません。でも、それでは本末転倒です。これで良かったのだと思います。
三人目の主役、ザッカリアを歌ったのは、ロシア出身のゴルニー。ザッカリアは役の上では「長老」ですが、音楽的には若手の馬力あるバス歌手が歌っても様になる役です。ゴルニーは、93年にブレゲンツ音楽祭のこの役でデビューしたそうですから、もう若手とは言えないかもしれませんが、主要な舞台に出演するようになったのは最近のようです。よく響く強さも持ったカンタンテな美声で、特に第2部の静かな<祈り>のアリアでは、様式感の確かな美しいカンタービレを聴かせてくれました。
イズマエーレの樋口達哉、フェネーナの谷口睦美、アンナの安藤赴美子など、日本人ソリストも健闘していました。特に第1部のアビガイッレ登場後の三重唱における谷口と安藤の歌唱は、コルネッティに一歩もひけをとることなく、カリニャーニの見事な指揮に導かれて非常に美しいアンサンブルになっていたと思います。
カリニャーノの才能は、第3部の有名な合唱<Va pensiero…É(ゆけ、わが想いよ)>をはじめとするアンサンブル・シーンでいかんなく発揮されましたが、特に最終幕のア・カペラの合唱<Immenso Jehova,…É(広大無辺なエホバの神よ)>の美しさをあれだけ再認識させてくれた演奏は今までなかったように感じました。
さて、問題の演出について、お話しましょう。
劇場に入ると、開演前から幕は上がっており、舞台上はどこかの高級ショッピングモールのアトリウム空間で、その中を買い物客たちが思い思いに動き回ったり、腰かけて休んだり、携帯電話をかけたりしています。開幕前から芝居の一部はもう始まっているのです。
装置は、中央がシャンデリア風のランプが下がった吹き抜け(アトリウム)となっており、上手に2列のエスカレーターがあって舞台上に見えている2層のフロアを結んでいますが、階下にも階上にもさらにフロアがあるらしく、上層上手奥には上に伸びるエスカレーターが見えており、下層のエスカレーターの横からは中央の吹き抜けの穴を下降する階段が伸びています。
壁やフロアは白大理石、廊下の手すり柵は金属とガラス、お店の一角の壁には下着姿の東洋系の美女がポーズをとっているなど、いかにもシンガポールかジャカルタあたりによくある高級ショッピングモールの風情。ブランド物の紙バッグや箱を手に持った男女の買い物客たちは、いかにも富裕層といった雰囲気。制作チームは「東京」のモールをイメージしたのかもしれませんが、私の目にはいかにもアジアっぽく見えます。
とにかくよくできていて、エスカレーターが静止状態で買い物客たちは自分で歩いて上り下りしなければならない点を別にすれば、とてもリアルな情景です。
これだけ立派な装置を仕込んでしまうと、当然舞台転換はなく、劇はずっとこの場面の中で展開することになります。ここにまず原作からの読み替えの無理が出てきます。
第1部のエルサレムの神殿をショッピングモールに見立てるところまではよいとして、第2部以降のバビロンの宮殿の一室や空中庭園、虜囚となったユダヤ教徒たちが望郷の念を歌うユーフラテス河畔までが同じ場所にされてしまうわけです。初めてこのオペラを観るひとにとっては何がなんだかわけがわからなくなってしまったことでしょう。
プログラムの解説の中で、グレアム・ヴィックは以下のような趣旨のことを述べています:一神教が根付いていない日本で、この旧約聖書の物語をどのように理解してもらうか。「唯一神」の観念をどうとらえるべきか。そのための工夫として、神を「自然」と読み替え、その自然が人間を罰するドラマとしてとらえる。そして、21世紀の今日、われわれがどのような時に神からそっぽを向かれるか、それが「人間がショッピングに走る時」だと自分は感じるのだ、と。
ここには、演出家の独善が幾重にも重なっています。まず、日本人には唯一神の概念がわからないのではないか、教えてやろう、というお節介。オペラを聴きにくるような日本人には、少なくともユダヤ教徒のバビロン捕囚の話は常識であり、エホバの神を「自然」に置き換えたり、ソロモンの神殿をショッピングセンターに置き換えたり、ユダヤの民を「ひとびと」とい言い換えたりする方がよっぽど混乱を招くということがわかっていません。馬鹿にしているではありませんか。
神との契約を忘れたかに見える奢り高ぶったユダヤ教徒たちを罰すために、神はネブカドネザル(ナブッコ)によりソロモン神殿を破壊させる。神殿というよりどころを失い、バビロンに捕囚されたことにより、ユダヤ教は律法への帰依に純化し、一神教としての強さを獲得する。神の道具であったはずのネブカドネザルが自分こそが神であると言い放つに至って、神は彼も雷で撃って罰し、やがて王は回心する。こうした旧約聖書の壮大なドラマを、ショッピングモールに集う拝金主義の富裕層とそれに反発するアナーキストのテロ集団の物語に「矮小化」して何が楽しいのか。おそらく「無宗教で拝金主義」のアジア人たちにはこうして矮小化してみせないとこのドラマの本質が理解できない、という欧州人のおごりが感じられます。
もうひとつ、この矮小化の過程で失われてしまったのが、ナブッコとアビガイッレの葛藤の物語です。原作の戯曲では、アビガイッレはナブッコの王妃が臣下と不倫してできた子という設定であるようですが、オペラのドラマでは、アビガイッレはナブッコが奴隷女に生ませた子であるという設定になっています。本来、アジアの常識では、正妻の子であろうが、妾腹であろうが、王位継承権はあるはずで、そのためにハーレムは存在しました。ところが、この物語では、王女として扱われてきたアビガイッレの母が奴隷女であるということが重大な秘密として扱われます。これは、正式な結婚から生まれたのではない庶子(バスタード)には相続権はない、という実にキリスト教徒的な発想によるものです。オペラ台本には19世紀ヨーロッパ的な価値観が色濃く反映されているのです。
今回の21世紀の「無宗教で拝金主義のアジア人たちのショッピングモール」に置き換えられた舞台での上では、アナーキストの親分ナブッコのふたりの娘のうち、「正妻」の子フェネーナには正統性があり、実力がありながら「奴隷女」の子であるアビガイッレには親分継承の資格はない、などというわけのわからない話(アナーキストがキリスト教的規範を尊重するの?)が展開してしまうことになりました。
また今回は、字幕でも、イタリア語の歌詞では「ユダヤの民」、「イスラエルの民」、「ヘブライ人」となっている言葉を、全て「ひとびと」と訳すなど、かなり無理のある読み替えを行っています。争奪される王権の象徴が金属バットなので、「王冠」という言葉を「しるし」と訳すなど、ほかにも苦しい読み替えがたくさんあり、思わず笑ってしまいました。もともとこのオペラの台本には、バビロニアとアッシリアを混同するなどいい加減なところもあるので、あまり気にすることはないのかもしれませんが、原語の歌詞は変えられないのに字幕の訳語を強引に場面に合わせるものに変えてしまうというのは、どうみても邪道です。
このようなご苦労な「読み替え」の結果、舞台の上にはあまりにも破綻の多いストーリーが展開されることになり、下手をすると、古代のロマンに満ちたこの時代物オペラの良さを減殺してしまうおそれのある演出であったといわざるを得ません。
幸いなことに、そうした支離滅裂な演出に惑わされることなく、演奏面が立派だったことで今回の公演は救われました。
同じように独善的なコンヴィチュニーの演出で東京二期会の《マクベス》では、まさにその音楽の素晴らしさが損なわれるという結果を招きました。その《マクベス》公演とこの《ナブッコ》公演の大きな違いには、指揮者のほかに、合唱の力があったと思います。
どちらも演出を生かすために歌手とは別にダンサーや演技専門のスーパーを多数動員していました。今回のプログラムにも「助演」という人たちが25名も記載されています。しかしながら新国立劇場の場合は、その助演とは別に合唱団が80名も記載されているのです。その人数の厚みが、たしかな音楽のパワーを保証していたのでした。