指揮:グスターボ・ドゥダメル
演出:ジルベール・デフロ
美術:エツィオ・フリジェリオ
衣裳:フランカ・スクァルチャビーノ
リゴレット:レオ・ヌッチ
マントヴァ公爵:ジョルジョ・ベッルージ
ジルダ:マリア・アレハンドレス
スパラフチレ:アレクサンドル・ツィムバリュク
マッダレーナ:ケテワン・ケモクリーゼ
ジョヴァンナ:ジョヴァンナ・ランツァ
モンテローネ伯爵:エルネスト・パナリエッロ
マルッロ:セルジョ・ヴィターレ
ボルサ:ニコラ・パミーオ
チェプラーノ伯爵:アンドレア・マストローニ
チェプラーノ伯爵夫人:エヴィス・ムーラ
とにかく、ヌッチの至芸もそろそろ聴きおさめ、と思うのでそれなりに楽しめる公演ではありましたが、ドゥダメルの指揮は多少疑問の残るものでした。
もちろん、《アイーダ》や《オテッロ》ならまだしも、リリコ系の歌手が中心となる《リゴレット》をNHKホールという大きすぎる容れ物で上演する、という悪条件は考慮に入れる必要はあるでしょう。
それにしても、アンサンブルの場面で合唱やオケの音が大きすぎてソリストのメロディーラインが聴こえにくいことが時々あり、バランスが悪いところがありました。よく統率されていて小気味よく疾走するオーケストラは、若手の実力者らしい溌剌とした生きのよさと熱気を感じさせるものではあったのですが、日本公演最終日であるにも拘らず、歌手(特にヌッチ)との呼吸がしっくり合わないところが随所にみられました。
なんだか、「俺は伴奏屋じゃないぞ」と一所懸命にリキんでいるようで、歌が主役というイタリア・オペラ、しかも、71歳のレオ・ヌッチ日本最後(おそらく)の晴れ舞台、ということをまるでわきまえていないように見受けられました。先月ヴェローナで聴いた同じヌッチ主演の《リゴレット》を振ったリッカルド・フリッツァとは劇場指揮者としての実力の差は歴然です。記念すべき公演にスカラがなぜこの指揮者を選んだのか、という疑問符は消えないまま残りました。
それはさておき、主役のヌッチ。「至芸に磨きのかかった枯淡の境地」と言いたいところですが、それとはちょっと違います。往年の声の輝きこそ少し衰えがみられるものの、だからといって年寄臭くしょぼくれた道化役を造型する気は微塵もないのでしょう。父親としての不安、怒り、哀しみを声と演技のエンジン全開で表現します。
なんと、ヴェローナの時と同じように第2幕フィナーレの二重唱後半部分をアンコールしてくれるなど、例によってサービス精神満点。指揮者のひとりよがりなどどこ吹く風で舞台を支配する「座長」の貫録十分でした。
今回の公演で特に注目したいのは、若手の主役のふたり。なかでもジルダを歌ったメキシコ出身のソプラノ、マリア・アレハンドレスは、なかなかの逸材と感じました。高音の安定感、フレーズの終わりの声の切り方、アジリタの切れ、などに課題はあるものの、なんといっても声の響き(リンギング)の良さが際立っています。倍音がたくさん出ていて、リリコ系の軽めの声にもかかわらず広いNHKホールを満たして響き渡るさまは、往年のフレーニやグルベローヴァに匹敵するものがあるように思われます。
第1幕第2場のアリア<Caro nome…É(慕わしい人の名は)>では、様式感も確かで、この曲のカンタービレの美しさをかならずしも理解しているとは思われない「伴奏」にもかかわらず、しっとりとした情感を漂わせた見事な歌唱を聴かせてくれました。
ヨゼフ・カレーヤのキャンセル(METに続く2回目)によって来日したピサ出身のテノール、ジョルジョ・ベッルージも、イタリアのリリコらしい声の甘さ、フレージングの柔らかさ、巧みな弱声の使い方などを身に着けていて、特に文句をつけるところのないマントヴァ公爵だったと思います。
全3幕にわたってソロにアンサンブルに出番が多く、難しい歌唱が多いわりには、能天気な好色漢を演じなければならない損な役柄をしっかり演じていました。
準主役のスパラフチレとマッダレーナも合格点。特にグルジア出身のメゾ、ケモクリーゼは、容姿がこの役にぴったりで、色っぽい演技が決まっていました。
問題は、脇役ながらこのオペラのキーロールというべきモンテローネ伯爵。往々にして非力なバス・バリトンが配されることが多いのですが、残念ながら今回もご多聞に漏れず、ドラマの鍵を握る「モンテローネの呪い」が十分に発動されたとはいえない結果となりました。「総本山」のハウスの実力はこのような部分の配役にこそ見せてほしいものです。
デフロ、フリジェリオのプロダクションは、ムーティ時代の1994年からのもの。衣裳も含めてきわめてオーソドックスで美しい舞台で安心感があります。
ただし、第1幕第2場でジルダが歌いながら登るバルコニーや、第3幕でマントヴァ公爵が泊まる部屋などが歌手に負担をかける3階部分の高い所にあったり、人物の出入りや動線が不自然に見えるところがあるなど、長く使い続けられたものわりには疑問に感じる部分も多いものでした。