指揮:リッカルド・ムーティ
演出:エイドリアン・ノーブル
美術:ダンテ・フェレッティ
衣装:マウリツィオ・ミレノッティ
合唱指揮:ロベルト・ガッビアーニ
シモン・ボッカネグラ:ジョルジョ・ペテアン
マリーア・ボッカネグラ(アメーリア):エレオノーラ・ブラット
ガブリエーレ・アドルノ:フランチェスコ・メーリ
ヤーコポ・フィエスコ:ドミトリー・ベロセルスキー
パオロ:マルコ・カリーア
ピエトロ:ルーカ・ダッラミーコ
伝令:サヴェリオ・フィオーレ
侍女:スィムゲ・ビュユックエイデス
結論から言いますと、期待通り、2013年(ヴェルディ・イヤー)の来日公演で感じていたもやもやをすっきり吹き飛ばしてくれる快演でした。さすが、ムーティ、これぞヴェルディのオペラです。
フリットリの降板により、メーリ以外は知名度も低い若手主体の歌手陣となりましたが、まったく不足感は感じません。
昨年11月のN響定期《シモン》の感想で「ヘンな演出がつくよりは老練な指揮者による演奏会形式の方がよほどオペラを楽しめる」と私は書きましたが、今回はその演出も良く、きわめてレベルの高い公演。私にとっては、あの綺羅星のごとき名歌手たちをそろえた1981年のスカラ座来日公演に次ぐ感動と満足を得られた《シモン・ボッカネグラ》であったと思います。
バルバラ・フリットリは既に体調が回復し、来日リサイタルは予定どおりに歌うとのことですが、「マエストロ・ムーティの指揮でアメーリア役を歌ったことがないのに、病気のため来日直前7日間のローマでの稽古に参加できなかった」との理由で降ろされ、既にローマでの《シモン》公演で実績のあるエレオノーラ・ブラットに替えられたようです。
歌手のわがままは許さない、事前の稽古重視、といういかにもムーティらしい対応です。がっかりしたファンも多かったようですが、結果として、なまじ色のついていない若手を鍛えて自分の理想とする音楽作りを目指す、というマエストロの手法が徹底したことにより、かえっていい結果が生まれたのではないか、と私は思います。
当日ロビーで販売されていた新刊「リッカルド・ムーティ、イタリアの心、ヴェルディを語る」(アルマンド・トルノ編、田口道子訳、音楽之友社)は、ヴェルディ・ファン必読の数々の示唆に富む内容です。その中で、ムーティがこれまでいかに楽譜に忠実に演奏することを心がけ、伝統や慣習と戦って来たか、も語られています。
しかしながら、彼は常に厳格な原典主義でスコアの指示は絶対に守るのか、というと必ずしもそうではなく、ヴェルディの目指した言葉と劇的効果の重視という目的に合うのであれば現代の劇場の大きさや楽器の性能に合わせてスコアからは離れた伝統的奏法に従うこともある、と述べています。文献考証学的に当時の楽器やピッチを使って当時の奏法に固執したとしてもその「再現性」には限界があるのであり、あくまでも現代の環境の中で作曲家の意図に忠実であろうとするのが彼の方法であると。
しかし、もちろんそこには、永遠に解けない問題も残ります。彼は書きます:
「ヴェルディ作品の演奏法に関する問題はこの先何十年も続いていくのではないかと思う。1940年代、50年代にはヴェルディはヴェリズモ風に演奏されていた。歌手は大声で叫び、オーケストラは繊細さに欠ける演奏をしていた。それは間違っていた。ヴェルディは最も繊細で説得力のある作曲家の一人なのである。しかし、疑問が残る。優雅さを強調しつつ、どのような尺度でヴェルディ的アクセントを持つヴェルディを取り除いていったらよいのだろうか?」
この日の《シモン》の演奏が、ひとつの答えを出していたように、私には思えます。
あくまでもスタイリッシュで優雅な美しさを失わない範囲で、「ヴェルディ的な」熱気と興奮も感じさせてくれる演奏。私にいわせれば最近のミラノ・スカラ座のヴェルディ演奏は、この「ヴェルディ的アクセントを取り除き過ぎた」ものが多いように思います。ムーティは違います。彼にそれができる理由も上記の本で語られていると私は思います:
「ドイツ人は我々イタリア人を、たびたびズンパッパの国民だと批判する。しかし、私はいつも繰り返すのだが、ヴェルディの伴奏というもの(時々『音楽隊の音楽』のように響くが、もちろん音楽隊にとってマイナではない)は、ただの『伴奏』ではなく、リズムの鼓動を通して、声の周りでドラマチックな内面の動きを表現しているのである。表現を生み出す手段は声のみで、その下を流れるのが簡素な伴奏である、と考えるべきではないが、イタリア・オペラはしばしばそのように演奏されてきた。時に『指揮者は、ヴェルディの音楽を高尚に演奏するように努めていた』と書かれた批評を目にすることがある。しかし、たとえば《アッティラ》を高尚に演奏するように努める必要などあるだろうか?《アッティラ》は、そもそも高尚な作品ではないか!」(引用にあたり訳文を筆者が一部改変してます。)
なお、「ヴェリズモ風演奏」という表現を使うときには注意が必要です。
ムーティは「歌手は大声で叫び、オーケストラは繊細さに欠ける演奏」とわざわざ言い直しているので意味は明瞭ですが、ヴェルディのオペラはヴェリズモではないので、そのように演奏されるべきではないのは、ある意味自明のことです。
50年代の大歌手黄金時代には、ヴェルディをヴェリズモ風に歌うのがよしとされた、という誤解が最近の若い聴き手の中にはあるような気がします。たとえば、その悪の権化の代表格のように思われているマリオ・デル・モナコの歌唱についても、ヴェリズモの代表格である《パリアッチ》と《オテッロ》では、明らかにスタイルに違いがあり、決して持ち前の強靭で輝かしい声の力だけで野放図に歌っているわけではありません。彼の若い頃の録音を聴くと、きちんとしたベルカント唱法の発声を身につけていたこともわかります。単なる粗野な歌唱と、類まれな声を生かしてドラマティックな興奮を得るために身を削って歌ったものとを同一に論じることはできません。
ムーティも50年代の大歌手の時代を全否定しているわけではなく、ましてや、現代の非力な歌手に合わせて、ヴェルディを(ベルカント唱法ではなく)ベルカント・オペラの様式で歌うべきである、と言っているわけではありません。むしろ、歌手の技芸の披露を第一の目的とするという意味でのベルカント・オペラ様式は、ヴェルディが最も否定しようとしたものであるからです。
さて、話が脇道にそれました。この日の演奏について。
題名役のペテアンは、ルーマニア出身で、2000年にローマでマルチェッロを歌って本格的なキャリアを開始した中堅どころのバリトン。ヴェルディを歌うには軽めの声ですが、そのリリカルな美声がムーティが志向する音楽作りには非常に合っており、会議場の場では若干の迫力不足も感じたものの、全体としては理想主義的かつ冷徹な政治的人間であると同時に恋人や父親としての苦悩や情感を持つ人間であるシモンという男の生きざまを美しく描くこの作品の主人公として不足のない存在感を示していた、と思います。
そのライバルであるフィエスコを演じたロシア出身のベロセルスキーは、さらに若い世代ですが、序幕(プロローグ)のアリアおよびシモンとの2重唱、第3幕のシモンとの2重唱という聴かせどころを重厚な声と確かな様式感で歌い切り、満足すべき出来でした。さらに経験を重ね、年齢に応じて低音の深みを増していけば大変な歌手になる可能性があると思います。
ソプラノのブラットもムーティが発掘した若手有望株なのでしょう。マントヴァ出身でパヴァロッティに3年師事したあと、モデナのフレーニが主宰するアカデミーでも研鑽を積んだとのこと。まさにヴェルディの出身地、エミリア・ロマーニャの空気を吸って育ち、名歌手の歌唱スタイルを直接に学んだ歌手といえましょう。従来はリリコからリリコ・レッジェロの技巧的役を歌っており、後期ヴェルディの主役はこの作品が初めてのようですが、フレーニを思わせる響きがよくみずみずしい発声、乙女らしい美しい容姿は、この役にぴったりで、フリットリよりもむしろ説得力がある配役ではなかったか、と思いました。
ベルカント・オペラではすでに実績のあるメーリですが、スピント系テノールによって歌われることも多いこの役を、弱声を巧みに織り交ぜるリリカルな歌唱スタイルで実に清潔に優美に歌ってみせ、新しいアドルノ像をみせてくれました。従来の直情径行で単純な青年というイメージを払しょくし、男らしく高潔で元首(ドージェ)の後継者に相応しい人物としてのアドルノを聴いたのは今回が初めてです。
若手歌手陣でありながら、これだけの説得力ある舞台を作り上げることができたのは、ムーティの徹底的な指導の賜物であったことは確かでしょうが、ノーブル演出とフェレッティ美術の極めてオーソドックスで美しいプロダクションも大きく寄与していたと思います。
ストレーレルとフリジェリオの名舞台の域には達しないとしても、決して音楽の邪魔をすることなく、海と死の匂いに満ちた音楽のイメージを視覚化し、人物の動きも自然で、的確な字幕とあいまって、この作品を観るのが初めての人であっても、ドラマの展開がよく理解でき、ヴェルディの音楽の偉大さを味わうことができた、と思います。