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ローマ歌劇場来日公演《ナブッコ》

(2014年6月1日 NHKホール    

武田雅人

指揮:リッカルド・ムーティ
演出・美術:ジャン=ポール・スカルピッタ
衣装:マウリツィオ・ミレノッティ
合唱指揮:ロベルト・ガッビアーニ

ナブッコ:ルカ・サルシ
イズマエーレ:アントニオ・ポーリ
ザッカーリア:ドミトリー・ベロセルスキー
アビカイッレ:ラファエッラ・アンジェレッティ
フェネーナ:ソニア・ガナッシ
大祭司:ルーカ・ダッラミーコ
アブダッロ:サヴェリオ・フィオーレ
アンナ:スィムゲ・ビュユックエテス

5月20日からはじまった計6公演の東京公演の最終日でした。
カーテンコールでは鳴り止まぬ拍手に応えて、オーケストラ団員や裏方スタッフまでが舞台にあがり、舞台奥には紙ふぶきとともに「SAYONARA」と書かれた電飾看板があらわれ、主催者側の「Grazie!」の垂れ幕に対して舞台上ではスタッフの手による「ありがとう」の横断幕も登場。そうした盛大な幕切れにふさわしいこの日の公演であったと思います。

私が最初に《ナブッコ》をナマで聴いたのは、1988年のスカラ来日公演。同じムーティの指揮、場所もNHKホールでした。その時以来、指折数えてみるとナマ演奏だけで11回、さらにいろいろな指揮者の全曲盤も聴いています。
ところが、今回のムーティの指揮は、26 年前の彼自身の演奏を含めて、それらのどれとも違うものでした。これほどまでに精緻で、言葉の意味が考え抜かれ、微妙なテンポの揺らぎに満ちた《ナブッコ》は聴いたことがありません。

29歳のヴェルディにとって3作目にして出世作となった《ナブッコ》については、作曲の経緯についてのエピソードと、大成功となった要因について、それぞれに言い古された通説があります。

2人の子供と最愛の妻を相次いで亡くしたうえ、前作《一日だけの王様》が大失敗に終わり、もはや筆を折ろうとまで思い詰めていた作曲家に対し、スカラ座総支配人のメレッリがコートのポケットに無理やり台本をねじ込んで持って帰らせる。下宿に戻ったヴェルディは、それを読む気もせずにテーブルの上に放り出す。しかし、偶然開いたページに書かれた歌詞<Va, pensiero, sull’ali dorate…(行け、わが思いよ、黄金の翼にのって,,,)>が目に飛び込んでくる。思わず興味をひかれた作曲家は、結局一睡もせずに台本に読みふけり、頭の中にはオペラのメロディーがあふれてきた・・・。

事実はこのとおりではなかったかも知れません。しかし、私には、若くして大きな不幸に見舞われた天才に対して、神様がその埋め合わせをするかのようにインスピレーションを与える瞬間があった、という事実は、結果としての作品が示していると思われます。
そしてこのオペラが上演されると、失われた祖国を思って歌われるユダヤ人たちの合唱<Va, pensiero…>が、当時オーストリアに支配されていたミラノ市民を熱狂させ、「リソルジメント(イタリア統一運動)」に火をつけた、つまりこのオペラのヒットの原因は愛国主義の時流を捉えたからだ、というのが従来の通説でした。
しかし最近では、「愛国オペラ」ということよりも音楽作品そのものの魅力が成功の原因であるという考え方も強くなってきています。ムーティも、この作品がイタリア人にとって特別な作品だ、ということは認識するものの、むしろ単なる愛国心に訴える熱気にあふれた若書きの作品ではなく、天才のみが作り出せる音楽そのものが持つ力を十分に表現したい、と考えて振っているような気がしました。

第1部のアビガイッレ、イズマエーレ、フェネーナの3重唱は、普通に演奏しても印象的なメロディーとアンサンブルの見事さが際立つところですが、絶妙なテンポ・ルバートで噛みしめるように進行してゆく今回の演奏は、本当に美しいカンタービレに満ちていました。
ソリスト、合唱、オーケストラで織りなすコンチェルタートという形式は、ヴェルディが生涯にわたって追求した作劇法です。第2部のナブッコの<S’appressan gl’istanti d’un’ira fatale:(運命の怒りの瞬間が近づく)>という歌詞で始まるそれは、後期の作品に比べるとまだ素朴でシンプルな構造ですが、ムーティの棒にかかると緊迫感に満ちたものになり、通常はフィナーレに用いられるこの形式をナブッコが雷に撃たれるというドラマの転換点の前に置いたヴェルディの当時としては斬新な意図を鮮明に表現するものになっていました。

そして第3部、例のヘブライ人たちの合唱<Va, pensiero>です。楽譜通りのsotto voceから始まり、通常よりもゆったり、粘りに粘るテンポで、めりはりの効いたダイナミクスが進行します。ユーフラテスのほとりにたたずみ乾燥した大地の向こうの空を見上げる虜囚の人々の思いというものをくっきりと描きだし、愛国主義を昂揚させるものとは別種のしみじみとした味わいと美しさを表現するものでした。
第4部のフィナーレ、瀕死のアビガイッレが登場する直前に、オーケストラが沈黙しソリストと合唱がア・カペラで<Immenso Jeovha(広大無辺なエホヴァよ)>と神を讃える場面もヴェルディの手法の斬新さを際立たせて見事でした。

モンペリエ歌劇場を本拠地とするフランスの演出家、スカルピッタのプロダクションは、無彩色の墨絵のような背景と、移動する縦長のパネルだけで、大道具、小道具はほとんど無しのシンプルな舞台。この作品がしばしば「オラトリオふう聖書劇」と呼ばれてきたことを踏まえての簡素化、象徴化であったようですが、一方で登場人物たちの演技の方は演劇的な明快さを持ち、非常にわかりやすいものでした。
初日のみ東京文化会館、あとの2回の公演はNHKホールという舞台のサイズも機構も違う会場で仕込みはどうするのか、と思っていましたが、これだけシンプルな装置ならあまり問題はなかったのかもしれません。
オケと合唱の迫力を楽しむためには、東京文化会館のほうが音響的にずっとよかったものと思われます。

ソリストの中では、バスのベロセルスキーが最も印象的でした。彼のみは広いNHKホールでも全く不足感のない充実した響きで、音域の広いこの役を朗朗と歌い上げていました。低音がもっと伸びると鬼に金棒だと思います。発声法も無理のないしなやかな声で、これまでに私が聴いたザッカリアの中でも、ネステレンコやスカンディウッツィに肩を並べる最上位の出来だったと思います。
題名役のサルシも悪くはありませんでしたが、カップッチッリ、ブルソン、ヌッチなどに比肩するところまではいかないのは、仕方のないことでしょう。

もうひとりの主役、アビガイッレは、ロシアのソプラノ、タチアナ・セルジャンが歌う予定でしたが、体調を崩して初日を歌っただけで降板。2回目と今回を歌ったのは、アンジェレッティ。トリーノ生まれのイタリア人で、ヴェルディの諸役の経験もある暗みがかった鋭い声の持ち主。容姿も美しく、アジリタもそこそもに切れて、悪い出来ではありませんでした。しかし、こちらもディミトローヴァやグレギーナと比べると迫力不足は否めません。もっと音響のよい劇場で聴けばそれほど不足感のないアビガイッレではあったと思います。
ソニア・ガナッシのフェネーナは主役と遜色ない存在感がありました。テノールのポーリの方は美声ではあるものの特に目立つところもなく、まずまずといったところ。

合唱はよく訓練されていましたが、声の厚みという点ではやはりミラノには及ばず、NHKホールを揺らすほどの迫力には至りませんでした。





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