3月15日(金)に成田発、18日(月)に成田着という2泊4日の「弾丸ツアー」で、今年もニューヨークでオペラ公演を3本観てきました。2泊で3本観ることが可能なのは、連日違う演目を公演するうえ、土曜日はマチネと夜の2本立て公演があるMETならではのことです。
今年は妻も行く予定にしていましたが、直前に都合が悪くなり、もう1枚のチケットは現地法人の若手社員に譲ることになりました。オペラは初めてという人ばかりなので、ファンの拡大に貢献できればいいのですが。
現地はまだ寒く、最低気温が摂氏0度前後、最高気温が摂氏8度前後。最近アメリカでは3月からデイライトセービングタイムが始まるので、夕方7時半の開演でもまだ空が明るい状態でした。
リンカーンセンターの地下駐車場周りの改修工事がやっと終わり、地下鉄への連絡通路が再開していました。昔は地下にもMETのギフトショップがありましたが、今は1階のみになりました。
3月15日(金)19:30~《オテッロ》
オテッロ:ホセ・クーラ
イアーゴ:トマス・ハンプソン
デズデーモナ:クラッシミラ・ストヤノヴァ
カッシオ:アエクセイ・ドルゴフ
エミーリア:ジェフィファー・ジョンソン・カノ
ロデリーゴ:マーク・ショウォルター
ロドヴィーコ:アエクサンデル・ツィンバリュク
指揮:アラン・アルタンノグル
演出:イライジャ・モシンスキ
装置:マイケル・イーガン
衣裳:ピーター・J・ホール
照明:デュエン・シュラー
結論から言うと、やや期待外れ。METらしいスケールの大きな具象的装置と強力な歌手陣でそれなりに豪華な舞台を楽しむことはでき、観客の反応も良かったのですが、この作品を何度も観ている私にとっては、残念ながら「ちょっと違うな」という所が多い公演でした。
その原因は、主役歌手の3人にもあるのですが、一番大きかったのはやはり指揮者であったと言わざるを得ません。
この日の午前中に12時間余のフライトを経て着いたばかりの当方の頭がボケていた、ということもあるのかもしれませんが、開幕の嵐の場面でこれほど生ぬるい演奏を聴いたのは初めてのことのように思われました。10年前にここでゲルギエフの指揮で観た時と同じモシンスキーのプロダクションとは思えない感じです。
そのほか、テンポの設定や音のバランス、様式感などで「いつもと違う」と感じた所は随所にあったのですが、あのすばらしい第3幕フィナーレのコンチェルタートに至ってその違和感は頂点に達しました。アインザッツがずれているというわけではないのですが、ソリスト、オケ、合唱が微妙にかみ合わず、せっかくその場の凍りついたような雰囲気を巧みに表現している演出と照明にもかかわらず、緊張感が高まらないのです。
フランス人指揮者のアルタンノグル(Altinoglu)は、1975年パリ生まれとまだ若いものの、経歴をみるとパリを中心に欧州の主要なオペラハウスで振っており、オペラ指揮者としての経験は十分な中堅のようです。しかしながら、クライバー、ムーティ、ゲルギエフ、フリッツァなどこれまで私がナマで聴いたことがある一流指揮者たちの演奏と比べるとどこかが違っていて、白熱のドラマが燃え上がってきません。
楽譜どおりに演奏されていることは確かなのですが、なにが違うのか。嵐の場面で金管の咆哮が足りない、「炎の合唱」では弦の刻みをもっと軽快で弾ませるべきだ、児童合唱登場シーンでは大人の声とのコントラストをはっきりさせてほしい、などいちいち言ってゆくと枚挙にいとまがないくらいになってしまいます。もどかしい思いのまま公演は進んでいきました。
もっとも、第1幕の乱闘シーンを収めるためにオテッロが登場するシーンや、第2幕の<悪のクレード>でイアーゴが「la morte è nulla」と歌う箇所などで、一瞬オーケストラを沈黙させる間の取り方は絶妙なので、劇場センスが悪い指揮者ではなさそうです。ヴェルディの音楽の持つ様式感とか、伝統的な演奏作法をきちんと勉強していない、ひとりよがりの自信家なのかもしれません。
ホセ・クーラは、10年前にポーランド国立歌劇場来日公演でこの役を歌った時から、あまり成長していないようです。持前のロブストな声はこの役にあっているはずなのですが、モシンスキーのスケールの大きな伝統的「時代物」プロダクションの中で、妙に近代心理劇的な細かい演技を目指しているような違和感がありました。デル・モナコのように目を剥いてケレンたっぷりの大仰な芝居を打つ必要はないとしても、コンプレックスにつけこまれて悪意ある術策に翻弄される主人公は、直情径行的で単純な武人であるからこそ英雄的悲劇になるのであって、ヘンに複雑な性格作りをする必要はないと思うのです。第1幕登場シーンの第ー声<E sultate!...>が非常に立派だっただけに、そのまま豪快に逆上し、ドラマチックに嫉妬に狂っていってくれなかったのが残念です。
一方のイアーゴの方は、悪魔的な人物として表現する方法とケチな小悪党にしてしまう方法があります。もともと軽めの声がさらに衰え始めているハンプソンの場合、後者で役作りをすればまだよかったのでしょうが、前者のドラマティックな表現を目指してしまったため、迫力不足に終わった感がありました。
ブルガリア出身のストヤノヴァは、容姿も美しく、強靭な美声をよく響かせていましたが、これも役作りがもうひとつで、デズデーモナのイノセントな性格が十分に出せていないように感じました。特に、見せ場である最終幕。<柳の歌>で不安にさいなまれ、揺れ動く気持を動的に表現すべきところが平板で、逆に運命に身をゆだねる静謐で淡々とした歌唱が聴くものの哀れを誘うべき<アヴェ・マリア>では表情過多になってしまっていました。