この年も仕事のことしか考えていなかった。
最大のヒットは、塩野七生氏の登場である。口説くのに3年かかった。読者調査での支持率もダントツに高い記事だった。嬉しかった。
2月までは、「大蔵憎し」が行動原理になっていた。公的導入反対のデモが連日大蔵省を取り囲み、やっと92年以来私が提唱してきた「大蔵省こそ日本の構造変化を妨害している悪の根源」という方向に世間のほうが沿ってきた。もっともこのあと金融危機はさらに深刻化し、大蔵省はさらに追い込まれることになるのだが。
その次に思い出深い記事は、実は11月号の「救国のシナリオ」霞が関改革を採点するである。総選挙の各党の公約に「行政改革」が出そろった。その目玉は大蔵改革である。これを持ち上げなくてどうする。たった6ページに燃えた記事だった。
9月号の第2特集で歴史読み物4本立てを一人でやったのも懐かしい。面倒な地図などを入れなければ、こうした記事はかなり効率的に作ることができると思う。
1997年の1月号に掲載した「孫子特集」は、秋口から一人で準備してきたものである。与えられた「孫子」という課題を、コニャックグラスを掌で暖めるように、どう取り上げるかじっくり考えることができた。取材先もゆっくり探すことができたし、手が込んでいる割には余裕を持った仕事ができたと思う。これも一つの仕事の方法なのではないだろうか。
また8月号から、はじめて本格的な連載記事をやった。「青春とは何だ!? トップの30代」である。会ってみたい経営者を厳選して話を聞きに行くことができた。本当に素晴らしい人たちに会うことができた。
仕事上の私の主義だが、毎月毎月テーマや取り上げ方の異なった仕事へ挑戦することを心掛けた。とにかく変化を追求したかった。しかし、私は後戻りするのは嫌なせっかちな性格なので、ライターやカメラマンは信頼できる人にしか絶対に頼まなかった。われながら厳しかったと思うが、常に緊張関係ががなければよい仕事はできないと思う。
仕事が量的に多かったので、まぬけなことをしていられないということもあった。しかし、今考えるともう少し新しい筆者資源の開拓をやるべきだったと後悔している。
一方でB&Bは完全に停滞していた。
1996年までは私が実質上の運営責任者だったが、私は自分が頂点に立つよりも、トップの下で補佐官的に動く方が活動しやすいタイプなので、なんとか状況を変えたいと思っていた。そこでこの年の春先に、コアメンバーの中から3人(都銀企画部男性・コンサルティング会社男性・団体職員女性)を世話人として指名し、私を含めた4世話人体制で運営することにした。この3人は、能力に優れ、人脈があり、人望のある得難い存在だった。しかも相互補完的な資質を持っていた。この4人の結束さえ保たれていれば、B&Bは磐石であろうという計算である。
活動については、完全に4人の合議で行う。ITの助けががあって初めて可能な体制であった。自分自身の暴走を抑止し、かつ他人の意見をより積極的に運営に取り入れてその延長線上でメンバーの参加意欲を高め、少しでも私自身の負担を減らすという一石三鳥を狙う作戦だった。他の3人の世話人のコミット意識も極めて高く、この戦略は成功するかに見えた。しかし、実はこのマネジメント体制は、たいへんな禍根を抱えていたのだが、私はそれを読み取ることができなかった。一見すると、B&Bは勉強会もパーティーや旅行なども大盛況で、何の問題も抱えてないように見受けられたのだが……。
この年末は、田舎の家が建て替えで、帰ってくるなと言われたので、じゃあいよいよまだ見ぬアメリカとやらに行ってみようと、ニューヨークとワシントンに遊びに行った。